記述の基体(がらくた)

※基本自分の備忘のために書いています。殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。

カテゴリ: 歴史・社会・哲学

「幸福」「正義」「愛」「善」など社会を作るためは、これらの理念について共通了解が必要だ。しかし、現代においては情報化社会やコミュニケーション手段の発達、さらに移動の簡略化により価値観が多様し、共通了解を築くのが難しくなっている。方法論から言えば、たしかに現象学的な方法で共通了解を見出す可能性はある。決められたルールにしたがい哲学のテーブルにつかせて、自分の主張を確信として、その確信成立の構造を取り出すというもの。しかし、実際問題、そのテーブルにみんなを、或いは必要な参加者をつかせるのが難しい。このゲームをスタートさせることができないのだ。むしろそこにみんな既に苦心しているのだ。論理的にはわかっている。このほうほうがいいのは科学の時代からわかっている。しかし、どうやったらみんなをテーブルにつかせることができるか。



立花隆『エコロジー的思考のすすめ』には人間社会において決定的に重要な価値体系について本質的な説明がある。まずは引用する。206ページから。




複雑な人間の順位制
人間社会の順位制は、動物社会の中ではいちばん複雑な仕組みになっている。
人間は自意識過剰の動物で、いずれ劣らぬ肥大した自尊心をかかえている。したがっ
て、集団の秩序を維持するために最も有効な方法は、その自尊心を厳密な順位づけの下
に圧しつぶしていまうことではなく、複雑怪奇であいまいな順位制の中で、なるべく多くの自尊心を満足させてやることなのである。
動物はすべて腕力一本で順位づけをしてしまうが、人間は順位づけの種目をやたらと多くする。個人の意識の中では、しばしばその種目は非公認のものにまで拡大され、その結果、どんな人がどんな人と自分を比べても、この点にかけては自分が上だという種目を持つことができるようになっている。
種目が多すぎるので、こんどはその種目の順序づけが問題になってくる。財力と知力ではどちらが上位か、感情の豊かさと統率力ではどうか、着るもののセンスと味覚のセンスではどうか、といった具合いである。種目間の順序づけが、それぞれの人の価値体系を作る。人びとの間で、価値体系に関して常に議論が割れるのも当然である。
ともかく、こうして人びとはそれぞれ別の価値体系の中で、勝手な順序づけを楽しみ、それに加えて、適当ななわばりを自分の周囲に作って、自尊心を満足させて平和な暮しを楽しむことができるわけである。
人間社会における順位制で、かなり普遍性のある種目は、所属組織における権力順位と、収入の高による財力順位である。この二種目で下位になったものは、自尊心を満足できず、コンプレックスを持ちやすい。
コンプレックスをのがれる手段は二つしかない。 一つは死にもの狂いで、その順位戦に勝って上位にのぼること。もう一つは、この二種目が下位になるような価値体系を独自に(あるいは仲間と共同で)作ってそれを信奉し、二種目にこだわる人をバカにすることである。どちらかといえば、後者のほうが楽でいいだろう。

簡単に要約するとこうだ。

  1. 人間社会は、誰もが持つ強力な自らの自尊心を満たすため、複雑な順位制を持っている。どんんな人でも「ある種目においてはおれが一番だ」と思えるようになっている。
  2. しかし、その種目の順序づけが重要になる。種目間の順序づけが、それぞれの人の価値観といえる。人びとの間で、価値観=体系に関して常に議論が割れる。
  3. 人間社会における価値体系の順位づけで支配的なのは、権力と財力。この二種目で下位になったものは、自尊心を満足できず、コンプレックスを持ちやすい。
  4. それを克服するには手段は二つしかない。 一つは死にもの狂いで、その順位戦に勝って上位にのぼること。もう一つは、この二種目が下位になるような価値体系を独自に作ってそれを信奉し、二種目にこだわる人をバカにすること。 
私はやはりこの中でも「お金」つまり財力が最も普遍に重要だとみなされる種目だと思う。それは数字という一義的で誰でも分かる指標があるからだ。これによって多くの人がコンプレックスを持つことになる。本心では自分のやっていることがもっとも価値があると思っていても(例えば、昆虫研究など)それが誰もが納得しやすい財力という種目のゲームではぜんぜん上へいけない。それでもそうした自分の道を進めるほどなにかに熱中できる人はいいが、普通はそうはいかない。

その難題は未だ解決されていない。

ICOなどに代表されるブロックチェーンにはこれを解決できる可能性がある、と私は思う。

いろいろな価値体系の経済圏を作ればいい。今、「お金」は、ドル、円、人民元、ユーロなどいろいろな通貨があるにせよ、グローバルで一義的な価値基準だ。とってもとーっても強力な価値基準。ドルの経済圏も円の経済圏も、たしかに価値体系は異なるが、現代のように簡単にいくらでも両替できる社会ではそれは一つの「お金」という価値体系としてまとめられる。

ICOなどトークンで、いろいろな価値体系の経済圏ができれば、全部を包括するような価値体系はなく、いろいろな価値体系が共存し、さらにいくつかの経済圏にまたがって生きることで誰もが自尊心を満足させることができる。

個性は価値だと思う。

いくらニートで引きこもっていようが、いくら教育水準が低かろうが、いくら教養がなく一日中エロいことしかしてなくたって、いくら社会的善を追い求めようが、いくら自己の快楽にひた走ろうが、それはその人だけの個性である。いくら、同じマンションの隣で生まれ育っても、もしくは双子で同じ家で生まれ育ってもどんな似たような体験をしても、同じ経験をすることなどありえないから、個人は個性だ。

今のところ、個性というと、自分をうまく表現したり、人の意見に流されず自分の考えを押し通したりするようなときに「個性」というが、僕はそう思わない。みんなに個性がある。というか個性があるから個人が成り立つと言える。

いま世間でいう「個性」とは、社会を変えるとか、アート性を持つみたいな努力前提がある。そうではなく、個性とは、誰もがもつ性質なのである。

そうした個性を価値とみなせる社会が本当にいい。

アーレントが言っている活動とはこういう個性を表現しあい価値化していく活動だ。自分を試行錯誤し表現し、認められれば価値となる。現代と違うのは、大きな流れとして個性が定義されるのではなく、表現を通じて、みんなが違う中で、それでも共感を得るものが価値なのである。

こういう個性を価値化することは実存的に追い求めるものだから、これを社会的に実現したい。

ブロックチェーン・レボリューション』を読んだが、巷で言われていることのほとんどがこの本に基いているというような印象を抱くほど、ブロックチェーンが世界をどう変えるかの物語を沢山用意している。ホリエモンとか野口悠紀雄とかが言うことも先取りされている感がある。技術解説とかではなく、世界にどういう影響があるか、私たちの生活、生にどう影響を与えるかという「本質」が掴める。(その信憑性は各自判断する必要があるが)

こういう本があることで、技術者はその技術の用途に大体の方向性を得るのである。




本書の一番重要なところをいくつか引用し説明する。これを読めば、ブロックチェーンがなぜ注目されるかの核心が掴める。

暗号通過が従来の通過と違うところは、発行にも管理にも国が関与しないという点だ。一連のルールに従った分散型コンピューティングによって、信頼された第三者を介することなく、端末間でやりとりされるデータに嘘がないことを保証する。5


神ほど全能ではないにせよ、このしくみはとんどもない力を秘めている。本書はこれを「信頼のプロトコル」と呼びたい。信頼のプロトコルをベースにして、世界中に分散された帳簿がその数をどんどん増やしている。これが「ブロックチェーン」と呼ばれるものだ。ビットコインも一種のブロックチェーンであり、今のところ世界最大規模のチェーンとなっている。6


〜従来の「情報のインターネット」に対して、ブロックチェーンは「価値とお金のインターネット」だと言えるだろう。ブロックチェーンは誰でも真実を知ることができるプラットフォームだ。7


なぜ記録なんかにこだわるのかって?真実は僕たちを自由にするからだ。分散型の信頼システムは、あらゆる場面に応用できる。絵や音楽を売って生計を立てたいとき。ハンバーグの肉が本当はどこから来たか知りたいとき。海外で働いて稼いだ金を、高い手数料をとられずに祖国の家族に送金したいとき。地震の復興支援にきて、崩れた家を立て直すためにその土地の持ち主を知りたいとき。政治の不透明さにうんざりして真実を知りたいとき。ソーシャルメディア上のデータを他人に利用されたくないとき。9−10

いかがだろうか。
 
われわれは普段、判断に必要な「真実」のために大きなコストを支払っている。そのコストが大幅に削減されるのがブロックチェーンの本質なのである。


今後のわれわれや世界の在り方は、どのような方向に進んでいくべきであろうか。ただただ目の前のことをこなす生き方はつまらない。どのような未来に自分がコミットするかを決めるべきだ。以下、大きな枠組みとして人間存在が今後どのように進んでいくべきかという三つの方向の型を概述する。どれも同時並行で進むであろうが、どこに軸があるかという話。

1 人間性キープ型
自由の相互承認を土台に、一人ひとりが個人を表現できる時代(今は表現どころか生存するのがやっと、あるいは生存できない人も大勢いる)。よりよいものを表現し、承認を重ねる。最低限の生活は保証されているが、承認の競争は残る。アーレントのいう活動が人間の条件となる。喜怒哀楽、波乱万丈に富んだ個性的な生が人間的である(よいもの)だと考える。ある意味ここに到達すれば人間社会は最終形態と考える。現在の状況からここに到達するために働かなくても生きていける社会がまず目指される。いわゆる知識人や文化人でこういう考え方の人が多いのではないか。

2 意識状態の最適化型
意識状態ベースでよい状態を定義し、それを実現する社会を目指す。行き着く先は生まれてから死ぬまでのあらゆることが仕組まれている(が最高に楽しい)完全に予定調和の世界。意識状態が全てなので人間という概念に固執する必要はない。『ウェルビーイングの設計』で書かれているような取り組みの徹底した実現。こうなるともしかしたら意識がどんどん閉じて消滅するかもしれない。SF小説『ハーモニー』で描かれるような世界。SF好き、現実離れした考え方を好む人が支持する。

ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術
ラファエル A. カルヴォ & ドリアン・ピーターズ
ビー・エヌ・エヌ新社
2017-01-24





3 ガンガンいこうぜ型
あまり打算的にならず未知の面白そうなことにとりあえずガンガン取り組んでいく。人間がどんどん宇宙へ進出。事実的な道の領域で突き進む。意識のアップロード、仮想現実など。人間の概念に固執しないでただどんどん新しいこと現実化していく道。人同士のコミュニケーションも不要或いは任意と見なされ、今の人間存在と全くことなった在り方に変わる可能性を秘めている。ホリエモンや落合陽一氏など行動型で未来に希望を持つものが抱く型。

僕はどれだろう…

あなたはどうでしょう?

以下の本に「フィールグッド・ステイト」にまつわる話が展開されている。とても興味深い議論なので、紹介し意見を述べたい。
 
宮台 真司  (著), 鈴木 弘輝  (著), 堀内 進之介 『幸福論―“共生”の不可能と不可避について』 (NHKブックス)  2007年 



本書の趣旨は、われわれの幸福へと向けたソーシャルデザイン(社会設計)がいかにして可能かないし不可能かを論じることである。答えが出ない問いを社会学者3人で討論し、問題に取り組み続けることの必要性を感じさせる。

さて、本筋ではないがここで一つ指摘しておきたい。本書では「幸福」をよいものとし、それをどう社会で生み出していくかというのが出発点となっている。人間社会の経験的な観念である「幸福」それ自体については問わないようだ。あくまでも「人間」を前提に考えている。

さて、本題に入る。「フィールグッド・ステイト」についてだ。

まずはソーシャルデザインについて説明する。それは、何かのターゲットを基に社会を設計すること。既に多くの国でソーシャルデザインが既に行われている。立憲制の下で国民が統治権力に権力を付託した瞬間にデザインが始まったとも言えるし、古くは家産官僚制という形にせよ官僚制が登場した際にすでに始まっていたともいえる。

しかし、問題は「このデザインが「われわれ」の幸福へと向けたものであることが原理的に不可能だ」ということ。これは、かつて社会学者や政治学者しかしらなかったらしい。公正ないし平等という原則に反しないソーシャルデザインは原理的にない、という驚愕の事態である。

われわれの幸福といっても「われわれ」の範囲は恣意的で、「われわれ」内での公正や平等を測る場合も恣意的な選別と排除を前提とする。コンドルセの指摘にもあるがごく特殊な条件がないかぎり、投票での意思決定は、投票以前的な決定過程を前提とする。それゆえ、われわれは社会をそれが近代社会である限り恣意的な事実性factualityを前提としたうえで運営するしかない。このことを最も早くに理解したのがウェーバー。市民倫理と区別される政治倫理の結果責任性を論じた。 

ここで、ソーシャルデザインの一つ「フィールグッド・ステイト」について見ていこう。近代社会の正当性や正当性を保ち、それらを前提とした市民の積極的政治参加を通じて、不安のポピュリズムに勝るとも劣らない有効なアウトプットを調達するべく、徹底的に研究したうえでアーキテクチャを設計しようとする流れ。そうした類のソーシャルデザイン主義だ。
 
アーキテクチャ(環境の仕組み)とは建築構造よりも広い意味である。長居する客に退店を命じるまでもなく、冷暖房の温度、BGMの音量、証明の明るさ、椅子の硬さを管理すれば、自由意志を損なうことなく、人々の行動を方向付けられる。これがアーキテクチャによるコントロール。アーキテクチャのなかで自発的に心地良さ(フィールグッドな状態)を追求することで、人々は自覚されないまま動員されていく。

先の恣意性の問題がここでも見える。アーキテクチャをめぐる情報格差。真の意図を知っているのは、デザイナー(設計者)だけだ。だがレッシグいわく、アーキテクチャをめぐる情報格差は消せない。できるのは情報アクセス可能性を開くことだけだ。だが開かれた機会が利用される保証はない。

ソーシャルデザインがわれわれの幸福へと向けたものであることは、原理的に不可能だった。「われわれ」の範囲は恣意的であり、どんな構成原理も排除と選別を前提とする。近代社会は恣意的な事実性を前提として運営される以外はない。

フィールグッド・ステイトについてまとめよう。それは、人々の心地良さを求めようとする欲求を利用することによって統治された国家のこと。ディズニーランドがそうであるように、目障りなもの、面倒なものを徹底的に隔離・隠蔽しつつ、いくつかの選択肢を提示することで快適さを演出して、統治の疑念を抱かせないようにする。

そのことの何が問題かと言えば、それはフィールグッド・ステイトを維持するための環境負荷や外部にいる貧困者たちの存在者が忘却されてしまうからであり、またステイト内部の人々が自分で物事を考える契機を奪ってしまうからである。要は「知らぬが仏」状態への危惧。

以上が、本書で述べられていることである。

問題の前者、「環境や一部の人間が犧牲になること」はあってはならない。これは議論の余地はなく正論だ。ちなみにこれは先の恣意性の問題と同じだ。設計者以外が不利益を蒙る可能性の話だからだ。これはフィールグッドの定義をはっきりさせないと議論できない。フィールグッドがあらゆることを意識に還元して、それが「よい状態」とするなら、それ以上の社会設計のターゲットはない。要するに、外部(設計者など)を気にしたりもしないほどうまく騙されているとうことだ。完全に意識に還元された「よい状態」を元に社会を作れば、恣意性の問題も解決されるのだ。そのような恣意性すらも気にしない心の習慣を作ってしまえばいいのだから。

では、後者の「ステイト内部の人々が自分で物事を考える契機がなくなる」というのはどうだろうか。 要するに新しい刺激に対処できる能力を持っておかないとまずい、とうこと。設計者もびっくりの設計外の出来事が起こったら、問題が起きるのではないか?という意味。

この「知らぬが仏」問題、これも意識状態が完全にコントロールされる社会であれば問題ない。この時点では、人間は意識経験をコントロールされるほど人工知能に知能格差を拡げられている。既に人工知能が人間を遥かに超える知能や生存能力を持っている。何か新しい刺激(宇宙人がやって来る、隕石の衝突)があれば、それを人間が気付いて対処のではなく、社会設計と運営を司る人工知能にまかせておいたほうが有効であろう。

それゆえ、私たちが向かう道はシンプルだ。あらゆる生への関与を”徹底的に”意識に還元し、これをコントロールできるような人工知能を作る、この方向に進んでいけばよい。意識ファーストである。それがどれだけ先の話になるかは分からないが。 

哲学者キルケゴールが著書『死に至る病』でいう「絶望」とは何か?

端的に言うと、キルケゴールのいう絶望とは自己が様々なものとの関係性の間でバランスを欠いてしまっている状態。生きているのに死んでいるような感じ。どういうことか。要は人間は物語を持って現実に適応している。でも現実という外界に適応するために抑圧してきた物語もある。

そのような物語は外界に合わせようとすると感情などで反抗してくる。また、物語といっても言葉の束であるので、一貫性を保つのは難しい。大学を卒業してプログラマーやって、アフリカで働いて、歌手目指して、医者目指すみたいなことやっていたら、毎度他者から承認を得え物語を安定させることはできなくて、パニックになるだろう。

ではどうすればいいのか?
誰かが気絶した場合には、水だ、オーデコロンだ、ホフマン適材だ、と叫ばれる。しかし、絶望しかけている人があったら、「可能性を持ってこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ」、と叫ぶことが必要なのだ。可能性を与えれば、絶望者は息を吹き返し、彼は生き返るのである。 
これがキルケゴールの答え。

では可能性はどうやって与えられるか?

教育哲学者の苫野一徳は、ルソーを手がかりに「可能性」とは、能力を挙げる、欲望を下げる、そして欲望を変える、の三つの道があるという。しかし、それは本質的ではない。現代の僕らはそもそも欲望がない。何かやりたいことを10個言えと言われてすぐに答えられる人は少ない。

これも物語という契機で考えることができる。われわれは物語を生きている。ただ単に「君はこういう世界を生きている」と言われたり、世界史を読んで「僕はいま、こういう流れにいるのか」と理解してもそれは物語として実存的に根付かない。僕らは日々リアルな世界で環境や他者と触れ合うことで世界像を更新していく。

未来への道筋は過去のリアルな経験の蓄積の延長線上でしか開けてこない。これはハイデガーの歴史性からも分かる。過去の経験がバラバラなら未来へ何も見えてこない。

キルケゴールの答えは「自己は自己自身によって措定するのではなくて、絶対的な他者によって措定される」というもの。実はキルケゴールは敬虔なキリスト教徒であり、絶対的な他者とは「神」だ。神の下でキリスト者として、常に絶望の中にある自己はどうすればよいのか?自己は自己自身によっては安定や均衡に達する事はできず、常に有限性と無限性、可能性と必然性の間でフラフラする。この間のバランスをもたらしてくれるもの、つまり措定setしてくれるものが神ということ。

これは、神を中心にした筋立てで物語(自我)を安定させるという方法である。でもしかし、先に書いた通り本を読んでも納得感はない。過去の蓄積からその筋立てに正当性がないと、未来につながらない。まずは過去を反省的に考える。現代とはどういう時代か考える。どういう欲望を持っているか考える。そしておのずと物語が見えてくる。そこで宗教を手がかりにするのももちろんOKだ。しかし、重要なのはハイデガーも言うとおり、世界からではなく自分に固有なところから物語を作っていくことである。 

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