記述の基体(がらくた)

※基本自分の備忘のために書いています。殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。

カテゴリ: デイリーライフ

われわれの意識体験におけるあらゆる認識は、物語相関的である。

テーブルの上にコップがあるとする。

喉が渇いている人にとって、これは「喉を潤すもの」だ。一方で、激しく喧嘩している男にとっては、「相手に投げつける固いもの」である。各自の物語に相関して対象が認識されるのであり、世界には、こうした各自の物語を離れた「客観的」なるコップは存在しない。

いわゆる「客観的」と言われるものは、そのような物語相関の認識において大多数の人が共通の意味として認識する意味である。例えば、コップであればたとえ違う物語を生きる人々にとっても、大多数の人にとっては「飲料を飲むもの」だ。

さて、資本主義社会において、多くの人が日々ビジネスチャンスを狙い、そこには裁定が働き簡単に儲かるようなチャンスはない。なぜなら、多くの人が同じような物語で世界や社会を眺めているからだ。同じような、というのは大体同じような時間軸で同じような世界の範囲をベースに考えているということだ。

例えば、スタバの日本進出の際、多くの人はスタバの事業を「おいしいコーヒーを提供する場所」と考えるだろう。だから、直営店方式で展開したそのやり方に疑問を感じ、一般的なカフェチェーンは手っ取り早いチェーン展開をする。

しかし、スタバは自分たちの提供しているものを「サードプレイス」、つまり家でもオフィスでもないゆっくりできる場所の提供という物語を持っていた。だから果敢に、店内の世界観を保つために直営店というリスクを伴うやり方を取ったのだ。

時間軸を変える、範囲を広げる、提供しているサービスの価値を自分で定義するなど、普通の人と違った物語で世界を見ると、実はビジネスチャンスに溢れている。あとは、それを少数の仲間にシェアをして実行すればよい。

「幸福」「正義」「愛」「善」など社会を作るためは、これらの理念について共通了解が必要だ。しかし、現代においては情報化社会やコミュニケーション手段の発達、さらに移動の簡略化により価値観が多様し、共通了解を築くのが難しくなっている。方法論から言えば、たしかに現象学的な方法で共通了解を見出す可能性はある。決められたルールにしたがい哲学のテーブルにつかせて、自分の主張を確信として、その確信成立の構造を取り出すというもの。しかし、実際問題、そのテーブルにみんなを、或いは必要な参加者をつかせるのが難しい。このゲームをスタートさせることができないのだ。むしろそこにみんな既に苦心しているのだ。論理的にはわかっている。このほうほうがいいのは科学の時代からわかっている。しかし、どうやったらみんなをテーブルにつかせることができるか。



1,それ意味ありますか。

とか、

2,生きる意味

などで使われる「意味」の定義が曖昧なので、これらを難問化させている。

1について言えば、これは「充実した意味」というニュアンスが強く、言い換えれば「意義があるか」、つまり「何か当事者にメリットがあるか」のような形で使われている。

また、2については、「目的」として「意味」が使われていると思う。

しかし、「意味」というものの本質、つまり、もっとも中心的なポイントを理解すればこうした誤解に惑わされない。

「意味」というのは、われわれが生きるということそのものを表す。何かに意味を見出しているということが、生きているということなのだ。

変な音を聞いて「意味不明な音だ」と感じたことが「意味」の発生なのだ。
なにかに気づく、知覚するということとも似ているが、意味というのは「〜として」何かしらの了解があるということ。

このように「意味」を理解すればいろんな「意味」を使った難問が解ける。

ビジネス界において、リクルートの藤原和博さんの「レアカードにならないと稼げない」という話をしらない人は少ないだろう。以下の動画で見れるし、こちらで講演の全文も読める。



藤原さんによると、100万人に1人の希少性のある人材になれば、大体年収1000万から1億円ぐらいは絶対いくという。そして一つの分野で100万人に1人になるのはオリンピックに出るようなもので非常に過酷な競争であるが、まずは100人に1人を目指し、3つの領域でそれを実現すれば100の3乗で100万人に1人の逸材になるという。

一つの分野で100人で1番になるには、大体1万時間かかるという。これは長いか?短いか?1日3時間やる、365日やったら1000時間。そしたら10年。1日6時間ずつ取り組んだら5年なのだ。

藤原さんの場合、20代で営業とプレゼンで100人に1人になり、
27歳から37歳までマネジメントをやってさらに、100分の1、
そして、
第3の分野として、
「リクルート流の営業プレゼンとリクルート流のマネジメントをまったくリクルート流じゃないところ、ノンプロフィットの世界で試したらどうなるかっていうことに賭けた」
という。

ここで藤原さんの和田中学での実績は述べないが、この第3領域でも成功し、100万人に1人の人材になった。

今日は、この考え方が金を稼ぐというよりも、もっと広く生を充実するためにも非常に重要であることを主張したい。生が充実するとは、ようするに、幸せにいきる、ということとほぼ同じ。ただ、人間の意識状態は常に幸せになることはできないので、全体として「よい」といえるような生を、充実した生を自分は呼んでいる。

なぜ生の充実に、この3つの領域の掛け算が必要なのか。

それは、現代において、「俺がやらなきゃ誰がやる」というような機会がほとんど存在しないという問題がある。現代は自由の時代だ、みんな人に迷惑をかけなければ何をしてもいい。どんな生き方をしてもいいのだ。しかし、その物語が他者に承認されていなければだめで、その承認も、お金を稼げるというくらいまで一般化されなければ物理的にもサバイブできないのだ。

現代は、自由過ぎて、いろいろな生き方がある。情報に敏感な人ほど新たな機会に目を奪われ自分の生き方にコミットできなくなる。

私はけっこう幅広く、ベンチャー界隈の経営者や従業員、いわゆるエリート大企業、中堅の企業、中小企業、マイルドヤンキー、学生など交流しているつもりだが、ある程度「情報が入ってくる人たち」は、自らの進路に疑問を持つ可能性が高い。情報が入ってくるとは、同年代の他者などの自分とは違った生き方についての情報。それが一次的な情報であればあるほど大きい。エリートサラリーパーソンやベンチャー界隈の人は人と会うことが多いのでそういう傾向にある人が多い。逆にマイルドヤンキーやニートなどは、ある種情報が限られており、自分から新しい環境へも行こうとしないので、今の世界への臨場感が強い。要は世界観が凝り固まっており善悪の基準が明確。あとはその世界で頑張るか否かだけが問題となる。

自分の経験について述べる。

自分が今まで生きてきて幼い頃から変わってないエートス(行動規範、心の習慣)は、自分がやらなくても誰かがやると思えることは、やる気にならない、ということ。同時に、誰でもあると思うが、何か世の中を良くしたいとか、あっと言わせたいという欲望もある。現代においては、誰しもがこの2つのベクトルの間で揺れ動いているのではないか。ある程度、こうすればこうなるという場所で働かないと金を稼げない。一方で誰でもできるならなんか自分としては身が入らない、というのは近代以降の根本的な問題であろう。

そこで、
3つの領域の掛け算の経験が重要となる。これだけ経験を積むことで、初めて「俺がやらなきゃ誰がやる」という何かへの情熱が生まれるのであるから。現代において様々な情報の中でなにかにコミットするのは難しい。だから実体験で自らの経験を積み、その中で確固とした方向性を強めていくのがよい。もちろん、人間生きていれば誰しも何かしらの経験を積むので、30くらいになったら大体方向性を見出すかもしれない。でもそれがあまりにも現代資本主義社会のルールと異なることであればサバイブ自体も難しくなる。それゆえ、藤原さんのいうような戦略はよいし、今述べたように実存的な観点でも重要だ。

人は物語が安定していないと生が充実しない。安定しない。われわれはあらゆるものを自分の物語に沿って認識する。外部情報だけでなく内的な情報もだ。毎度異なる物語を拵えていては認識がばらばらとなり生は充実しない。まずは物語を安定させて、初めてわれわれは山登りを始められる。現代においては山登りすらまだ始めておらずふらふらとさまよっている人も多い。

正直、藤原さんのいう100人の1人というためのスキルの定義の明確度とそのレベルをどう測るかはなかなか難しい。自分は32だが100人の1人のスキルを何か持っているだろうか。それを労働市場的な観点から見ると判断が難しいが、費やした時間からすればインターネットビジネス✕哲学✕中国にはそれなりに時間をかけてきた。まだまだ専門性を持っているとはいえないので、この分野で自己の物語を確立していきたいと思っている。

最近、表題の件、そういう感じだ。

昔はメタ的に何ごとも見てかなり仏教徒並の寛容な心が軸にあったが、ここ数年、特に最近は自覚的に脱メタ化している。つまり、物語への臨場感のUPだ。何のことか分からないのであればそれでいい。

要は反社会的な行動、そのようなガチの悪ではなく、日々愚痴を言ったり、或いはろくに仕事もしないでふらついたり、批評ばっかりしているようなやつとかがクソにみえる。もちろん、根は哲学的思考をしているので、彼らがそうなるのが社会的な問題だというのは理解しているが、一人の人間として接するのであれば、そいつらとはむしろ関わりたくない。

ネガティブな行為、行動、想像、言語化するやつとは関わりたくない。

もちろん、役割上そういうことが必要なところは除く。その見極めができないとだめよ。


今の時代はどういう流れの中にあるか。これまでは幼少期に形成された全知全能の自我を、人間社会で生きる中で、押し殺さなければならなかった。そしてめげずに頑張ったものだけが過去の自我から一貫性をもった安定した自我を築くことができる。今後、われわれの多くが一般的に自我を安定させることができる社会になる。


これは言い方を変えると、これまで人はその人に合わない型か合わないゲームで勝負させてこられた。人と違うことしてていい、何やってってもいいよやる気があれば、という社会になっていく。もちろん、やる気がなくても生きていられるようにしたいけど、やる気があればハッピーでいられるようにするのが先決。


お金で売ると一般的な尺度で判断されることになる。結局、ものを売るには<世界>に置くわけだから、全ての人が対象になる。でもその商品に価値を見出してくれる人に認知されるにはマーケティングコストがかかる。その人に「分かる」形で表現しなくてはいけないし、その人に届けないとだめだからだ。


以上、メモ。

「いいね」ボタンから「率直だね」ボタンへシフトする流れにある。

もちろん、表現としては「率直だね」とはならないが、「何がよいか」つまり「いいね」の内実は、率直に生きることになる。

人は無理しなくていい。人それぞれ気づいたらもうある習慣を身に着けてしまっていて、どんな良し悪しの基準を持つか、どんなときに嬉しいか、悲しいか、モチベーションを抱くかは人それぞれである。だから、集団で何かを同じ方向にする場合、誰かは必ず無理をすることになる。

自分自身あるがままでも受け入れられてさらに生存することもできるような社会に向かっていく。

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