記述の基体(がらくた)

※基本自分の備忘のために書いています。殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。

2019/07

落合陽一さんが何かのメディアで「共感されないことを前提で話す」ことに日本人は慣れていないといっていたが、全くそのとおりだ。

これって、要するに他者の「自由」を認めないというような根本的な社会思想と密接に関わっている。

日本は中産階級が多く、誰でも同じような価値観や世界観を持っていると多くの人が信じている。たしかに、お掃除のおばちゃんでもスタバに行くし、スタバの話が通じる。中国にいた頃、お掃除のおばちゃんやブルーカラーの人に「スタバはどこにあるか」とか聞いても、「スタバ」自体を知らなかった(発音の問題はなかった)。

そういう意味で、以心伝心でコミュニケーションコストが低そうにみえるのが日本の特徴。様々な宗教や人種のいるアメリカや地方で文化や方言が違い、貧富の差が激しい中国など多様な人々がいる場合、かなり最大公約数で人間レベルでの共通概念で理路整然と話さないと理解されにくい。

こういう社会だと、「自由」の理念はさておき、人々のエートスに「自由」が根付く。つまり、おれはおれの好きなようにいきるから、お前も好きにしろ、おれは構わない。というスタンス。中国に行くと、人々が他人に無関心なのがよくわかる。なぜなら、そもそも簡単には話通じないだろう、という前提があるからわかろうとしないのだ。だから興味もなくなる。

日本は逆でわかって当たり前だし、共通の前提があるという前提だから、がんがん人に介入していく。

どちらも一長一短はあるが、やはり人間社会の最高価値は「自由」だとすると、その理念が身体化されているアメリカや中国のように「共感されない前提」のほうがいいと思う。

まずは、今回亡くなられた方々に哀悼の意を表します。また、負傷者の方々、京アニの関係者の方々、そのまた関係者の方々が心身ともによい状態になることを願うばかりです。

私自身アニメに関する仕事をしていたので今回の事件や社会的な影響の大きさは理解できる。ただ、本質はそこではない。多くのそれぞれが主役の物語を持つ実存の主体が亡くなった。一人ひとりの生は比べようのないものだ。何人死んだかは二の次。

さて、この事件からわれわれは何をすべきか。お悔やみ申し上げたり、ご冥福を祈るだけでいいのだろうか。

誰かがツイッターで、「こういうサイコパスには対策のしようがない」と呟いていたが果たしてそうだろうか。サイコパスで片付けていいのだろうか。私はやはりこの日本の社会ひいてはグローバル資本主義の社会が生み出したものだと思う。始めから私はこのスタンスで見ていたので一般の人に比べれば冷静だっただろう。

現在では、前科、服役の過去がある41歳。「ころすぞ」と怒鳴り近隣とトラブルを起こしていたなどの情報くらいしかない。1978年生まれくらいか。私より8個上。

私自身、たいして余裕のある生活はしていないが、かなり恵まれた環境で育ったという認識がある。だから、こういう恵まれた環境がない場合、あるいは逆効果の劣悪な環境で育った場合、今のように比較的倫理的な生き方をできるかどうかわからない。
むしろ、自分が何か失敗したり、実力不足を感じる場合、それでもめげずに進んでいけるのは、過去の学歴や仕事、友達関係などの存在がそれらを支えていると思う。これらがなければ、自己評価は下がり倫理的な、というか社会に適合した振る舞いなどできないかもしれない。

見田宗介氏が以前、「眼差しの不在」の地獄として次のような議論をしていた。

2008年の秋葉原通り魔事件の加藤智大の動機は、誰求めてくれなかったから、しょうがないから突っ込んだ、という誰も相手にしてくれなかった、ということ。それに対して、40年前の似たような永山則夫連続射殺事件は、一見似ているが、その動機は逆で青森から東京へ出てきたが、学歴とか顔に傷があるとか訛りがあるとかそういう表面的なことで人から反発を受け、アメリカに希望を見出す。

密航しようとして、みつかったりして強引に突き進んでいるうちに殺人をしてしまった。これは逆に人々の眼差しが強すぎた。40年前の日本はよくも悪くも空気の濃い時代であり、むしろ人々がお互いを見る目が濃すぎた。それに対して今は空気が薄すぎる時代である。

今回の犯行、いやそれに限らず、先日の川崎殺傷事件など含め無差別的な殺傷事件、さらにはその他の殺人事件等、人の命を奪うという行為を取ったものの動機は共通のものがあるのではないか。正直、今回の歴史的な規模の事件を説明することはできないが、殺人一般の共通性については言えると思う。

つまりそれは、生活が困窮し、身体的に追い込まれたというよりも、誰も気にかけてくれない「眼差しの不在」が原因なのではないか。社会的に「善い」とされるものを何一つ持たず長らく生きていれば自己評価が下がり、行きづらくなるのは当たり前だ。そして他人とのコミュニケーションをさけ、悪のスパイラルにハマっていく。

誰か一人でもいいから、そばでその存在を受け入れてくれる存在が大切だと思う。それはこんな極端な事件レベルでなくても、資産家や社会的な地位のあるものでも同じだ。人は他者の目から自分を認識している。他者の眼差しがなければこの<世界>に意味がなくなっていくだろう。

ドイツでは教授が価値観の出発点といえるかも、という仮説。

ドイツでは「教授」になると何を教えるかや学生をどう扱うかについてかなり自由らしい。教授が何をやってもいいということは一つの成熟した考え方なのかもしれない。われわれの世界は、何が良く何が悪いのかについて絶対的な尺度はない。

シラバス的な授業で良し悪しをはっきりして、目標までの道筋を着実に進めていくのは決まった知識を詰め込むような司法試験や会計士の学校とか、そういうのであればいいが、より高度な、そうした知識を使ってさて何をするかを考えるようなレベルになると、シラバス的な授業設計は無理がある。規定できてしまうことは価値がない。

では、このような高度な学びをどう展開するか。どうやって言語的に規定できないことを前提に、評価軸を作っていくのか。それは、あるプロセスを経て、あるポジションについた者を「評価軸」にするのだ。そのポジションについた者には、自由に決めさせる、ということ。

いろいろな難しい関門を乗り越えた者であれば、この社会を任せられる、というのだろう。大学の先生は、研究、教授、大学行政など様々な仕事がある。それらをニーズ的な目線で評価しないでほしい。こういうところに、何も考えずに自動機械のようになんでも決定する頽落状態を乗り越える可能性がある。

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