自分が見ている世界を全てだと思って、その中で自由に楽しく生きていればいい。そう考える人は多いだろう。つまり、その狭い世界の外(真実)なんかどうでもいい、という態度。本当のことがわかっても、だからどうなんだ!っていっちゃうやつ。真実なんてどうでもよくて自分たちが自分たちの見ている世界がよければそれでいい。

しかし、このような主観的な世界重視の生き方の何が悪いのか。

言い換えれば、何が真実かを追い求めることのの何が問題なのか?世の中には、もうこういうことで処理しといたほうがいい、という側面があるものもあるが、それでも真実にこだわる理由は何か?メリットはあるのか?

このような問いに宮台真司氏がビデオニュース・ドットコムのイベント(この動画(27:00から))で簡潔に述べた理由は、

「システムはどのみち回らなくなるから」

というもの。われわれが行きている世界はシステムにより間接化されていて、直接的なものではない。このボタンを押せば、これが出てくるというような無数の仕組みで成り立っている。お金が価値の交換手段として成立していたり、毎月会社からお金が振り込まれたりするのも、われわれが習慣として動いているからにすぎず、絶対的なものではない。われわれは、システムに依存している。

世界がそもそもどうなっているか分からない人は路頭に迷って死ぬ。そのような習慣に疑問を持ち、習慣が解かれてしまえば、どうなるかわからない。

グローバル化を背景にこれまでの前提が崩れ、日本を例にすれば、中流階級から落ちてぎりぎりの水準でいきる人も増えるだろう。いままで当たり前だった自動販売機的なルーティンが崩れると、人間関係や生活スタイルあらゆるものがリセットされ、新たな世界に適応しなくてはいけなくなる。これまで、システムに依存してきたつけを払うことになる。普通に人が人を殺すかもしれない。

そもそも、われわれは、世界がどうなっているかわからない。しかし、それでも疑問をクリアにし続けてぎりぎりまで分からないラインを詰めていく。こうした作業が必要だ。だから、世界はそもそもどうなっているかの探究が必要、というわけだ。ここまでが宮台氏の意見。

これにみな納得するだろうか?


しかし、これだといかにも功利主義的な発想で、「死ぬのを回避するために真実を追求しろ」となってしまい、ヒッピー的な人間から、「そんな心配する、いつ死ぬか分からないから、楽しい世界を今享受して生きればいい」とカウンターをくらうだろう。実際、そこまでラジカルにシステムが変わった経験は今の若者にはない。だから、コクーンの中で自分の周りだけよければそれでいい、という発想もわかる。理論的には。

さらに、しかし。私はそうは思わない。もっと実存的(主観的)に考えると、やはり、真実を知ること、外の世界を知ることは重要だ。なぜなら、人はだれでも、自分の思っていた世界の外があることを痛感する経験を持っている。自分が優秀だと思っていたら、もっと上が沢山いたということ、仕事をしだしたら全然成果が出ない、結婚して幸せだと思ったら、問題が色々出てくる、等々。それゆえ、実際問題、誰もこうした真実の追求、今の状態が続かないかもしれないから、もっと原理的な構造を理解しようとすること、を逃れられない。どんな人だってそういう営みをしているはずだ。

逆に、冒頭で述べた「今が楽しければいい」という生き方は、そうした意識内にある過去の経験に基づいたリアルな不安に”蓋”をしているに過ぎない。”蓋”の下からくさいものが常に自分を悩ませる。日々色々な経験を避けられないわれわれは、必ず外の世界に触れてしまう。だから、完全にそれを密閉することはできない。

だとしたら、もう生き方は一つしかない。真実を求めて生きるのだ。言い訳をせずにこの世界全体がどうなっているかについての探究を諦めず続ける。世界全体に責任を持つのだ。持つとういうより、これからの不測の事態に対して覚悟する、といえる。