自分が30歳で学校に戻り哲学をやった理由について昔いろいろ書いたが、今の時点であらためてあえて一つに絞っていうと、われわれの人間存在がどういう自動機械なのかを知ろうと想ったのだ。この存在(つまり、意識体験)は、どういう仕組で動いているのかを知り、その上で以後この存在と付き合っていきたいと思ったのである。(私はそれを丸山圭三郎の言語観と、岸田秀の唯幻論からある一定の結論に至った)

われわれの言語がただの決めごとであり、幻想的なものに過ぎないことは現代においては多くの人が理解している。しかし、一般的にはみんなそのことを自覚していない。僕らはただただ、習慣的に決まりごとを作りながら社会を発展させている。法律や規則などだけでなく、僕らが前提的に使っている言語だって、習慣的なものに過ぎない。その言語によってあらゆるものを説明しつくすことなどできない。

われわれの存在(つまり、意識体験の「いま、ここ」)は、2つの領域に分けることができる。言語により説明する領域と、言語化できない領域だ。われわれは前者が当たり前に世界を説明し尽くすものだと思っているが、われわれにとっての最重要なのは後者の部分だ。われわれが求める真理、それは原理的にはたどり着けない物自体なのであるが、それはわれわれの確信構造の中では、言語化できない直接体験のほうにある。

人はおうおうにして言語により世界を説明しつしているという前提の中を動いている。いわゆるハイデガーでいう頽落状態である。僕は逆に常に真理がある側に立っているから普通の人と話が噛み合わないのはあたりまえだ。人はもちろん、真理を自覚的に考える必要はない。しかし、話していると、その今の社会や世界が作られた幻想であり、その当たり前ははかないものだと認識していて、その向こう側へのまなざしがあるかないかは話していいてわかる。

このまなざしがない人を社会学者の宮台真司氏が「世界がどうなっているのかから力を得ないものはだめ」と一喝していていたが私も同感だ。宮台氏はその理由を、システムはどのみち回らなくなるからと述べていたが、私はもっと実存的な理由でそう思う。前者の世界に留まっていると、この複雑かつ色とりどり豊かな世界を窮屈にしすぎてしまうのだ。つまり、私にとって面白くないのだ。そして、自分のよい状態をもとめるのであれば、根源的な真理側の世界で活動しないとその可能性がみつかる見込みはない。