記述の基体(がらくた)

※基本自分の備忘のために書いています。殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。

2018/12

石原さとみの彼氏ということで一躍有名になったショールームの前田さんは、自己分析を徹底してやったことが今の自分にとって重要だったと何かで述べていた。

これってとても大事なこと。

実は釈迦が悟ったのと同じこと。

自分を定義できることは世界を定義できたことと同じなのだ。

もちろん、完全な定義はできないが、ある程度まで行くとそうとうな納得感に到達できるのだろう。自分の強みや弱み、なぜそうなっているのか、それをいろいろな知識を動員して説明しきる。何か例外があったらもっと大きなストーリーで考える。自分を自動機械のように捉えて、どうしたらどうなるのかを把握するのだ。

ドライなイメージを持つかもしれないが、よく生きたいならこういう営みって大事だよなぁ。

なにかすごいものはどうやって作れるのか。

答えは、おそらく「そんなこと考えているやつには作れない」ということなのだろう。

しかし、少し考えてみたい。

なにかを「サービス」として提供しようとすると、それはなにか明確に測れる良し悪しの基準を作らなくてはならない。そうしないと、その「サービス」を再生産しつづけて提供し続けることができないからだ。しかし、人によってよいと感じるものは違うし、そのサービスを体験するときの状況はコントロール不可能なことから、ユーザーにどのような体験を与えるかは制御できない。

資本主義の一つの問題は全てを金銭的価値に還元することだ。トヨタ、グーグル、花王、百度、ネスカフェ、任天堂、テンセント、ソニーなど全然違う価値を提供している会社が一つの時価総額で測られている。国の運営もそうだ。GDPを目標に成長してきた日本の国民は実存的に充実しているか?ようは、幸せなのか?この問題は幸福度を指標にしているブータンのような国にも原理的につきまとう問題であるが、現状、これが最善の方法だと思われる。

人間の実存充実度を測るいい方法はないのか。もし私の物語相関理論で考えればどうなる?おそらく「幸福度」より、本質的な指標が作れるが、これも原理的には「価値観確定」のワナから抜け出せていない。

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さて、
語学サービスを作る以上、語学力を測るものが必要となる。これをTOEICとかTOEFLとかJLPTとかで測っていてはユーザーのためにはならない。語学サービスの本質的な問題は、ユーザー自分自身も理想的な未来の自分が分からないことだ。ぺらぺらになりたい、といってもそれが具体的にどういうことかを説明できればそれは実現可能な目標だし、そうであれば独学で十分できる。よくわからないから、とりあえず学校にいくのだ。

こういう、サービス設計において価値観が確定できない場合、どうすればいいか?

回避方法は2つある。

一つは、
そういうユーザーのニーズに一番応えるものは、「一定の内容の一定の量の経験を積ませること」ここにコミットすることだと思う。ユーザーの体験を理解することはできないから、”最低限”目に見える何かを”確実に保証”するのだ。

もう一つは、
自分がほしいものを作る。人は自分の主観から抜け出せないので、他人の主観を理解しようとすることは原理的に不可能だ。しかし、それを理解しようと努力はできる。しかし、それでも限界がある。自分の主観を理解することのほうが圧倒的に有利だ。だから、自分がほしいものを作れば、他の人も感動するようなサービスを作りやすい。他の人の立場になって二次的に考えていればリアルな体験は作れない。

という本が昔あった気がする。あったのか?わからない。でも褒める技術はこの世界において重要だ。人をのらせるためには、その人を気持ちよくさせなければならない。そのためには褒めることが必要だ。褒めるというと卑しいかんじがあるが、「よい気持ちにさせる」言動全般を指すと思えばいい。

どうやって褒めたら人はいい気持ちになるか?ただただイケメンですね、おもしろいですね、美しいですね、センスありますね、とか言われまくっても人は気持ちよくならない。われわれは独自の世界観を持ちながら一人一宇宙を生きている。人それぞれ「腑に落ちる」ことは異なる。それを踏まえて、相手に納得感のある褒めをしなければならない。

そのためには相手がどのような世界観を持っているのか、そしてどんな事実としての歴史をもっているのかを把握しなければならない。

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また、世の中はいかようにも理解可能だ。これをこころから理解している人は、大胆な行動が取れるのだろうな。頭でわかっているのと、本当に信じていることは違う。やはり言葉は軽い。行動、その人の生き方を見るのが本質に迫る方法だ。

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