youtubeの動画で30歳くらいの若かりし頃の哲学者東浩紀が、

近くの人間と言葉が通じないって状況分かりますか?まあそれが分からない人には言ってもしょうがない…

みたいなことを言っていて、まさに私はその意味がわからなかった。でも、最近、いろいろなバックグラウンドの人と接することでその感覚が分かってきた。これまでもいろいろな人には会ってきたと自負していたが、それは結局、日本で比較的意欲的に仕事をするようなそういう人たち、であり正直多様性はなかった。

でも、中国に来て本当にいろんな人に会う。「仕事」「お金」「働く」「人生」などいろいろな概念に直観する意味は各自違う。こっちの話の前提がまったく共有されていない人たちだ。

言葉が通じないとはどういうことか?

ある言葉の獲得状況が異なるのだ。

われわれはある対象に接したとき、ある意味がなんの推論も介さずに直接意識に生じる。「机」「パソコン」「猫」など様々な対象を目にしたとき瞬時にそれが何かを認識する。この意味の直観をフッサールは「本質直観」という。

この直観された意味は他者と共通了解しえる一般性があある。本質直観には他者との関係性が織り込まれている。なぜなら他者とのコミュニケーションの中で獲得した知識が身体化されているからだ。逆にいうと、他者と十分に状況を共有しながら概念を獲得していないと、その言葉に意味を十分に感じることができなくなる。

現代では多様な生き方が可能だ。人はそれぞれ接するメディアも情報も違う。会う人も違う。同じ言葉を使っているようでもその血肉化のされ方が違えば意味は異なる。

参考:山竹「本質直観とは何か??」