記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2018/09

立花隆『エコロジー的思考のすすめ』には人間社会において決定的に重要な価値体系について本質的な説明がある。まずは引用する。206ページから。




複雑な人間の順位制
人間社会の順位制は、動物社会の中ではいちばん複雑な仕組みになっている。
人間は自意識過剰の動物で、いずれ劣らぬ肥大した自尊心をかかえている。したがっ
て、集団の秩序を維持するために最も有効な方法は、その自尊心を厳密な順位づけの下
に圧しつぶしていまうことではなく、複雑怪奇であいまいな順位制の中で、なるべく多くの自尊心を満足させてやることなのである。
動物はすべて腕力一本で順位づけをしてしまうが、人間は順位づけの種目をやたらと多くする。個人の意識の中では、しばしばその種目は非公認のものにまで拡大され、その結果、どんな人がどんな人と自分を比べても、この点にかけては自分が上だという種目を持つことができるようになっている。
種目が多すぎるので、こんどはその種目の順序づけが問題になってくる。財力と知力ではどちらが上位か、感情の豊かさと統率力ではどうか、着るもののセンスと味覚のセンスではどうか、といった具合いである。種目間の順序づけが、それぞれの人の価値体系を作る。人びとの間で、価値体系に関して常に議論が割れるのも当然である。
ともかく、こうして人びとはそれぞれ別の価値体系の中で、勝手な順序づけを楽しみ、それに加えて、適当ななわばりを自分の周囲に作って、自尊心を満足させて平和な暮しを楽しむことができるわけである。
人間社会における順位制で、かなり普遍性のある種目は、所属組織における権力順位と、収入の高による財力順位である。この二種目で下位になったものは、自尊心を満足できず、コンプレックスを持ちやすい。
コンプレックスをのがれる手段は二つしかない。 一つは死にもの狂いで、その順位戦に勝って上位にのぼること。もう一つは、この二種目が下位になるような価値体系を独自に(あるいは仲間と共同で)作ってそれを信奉し、二種目にこだわる人をバカにすることである。どちらかといえば、後者のほうが楽でいいだろう。

簡単に要約するとこうだ。

  1. 人間社会は、誰もが持つ強力な自らの自尊心を満たすため、複雑な順位制を持っている。どんんな人でも「ある種目においてはおれが一番だ」と思えるようになっている。
  2. しかし、その種目の順序づけが重要になる。種目間の順序づけが、それぞれの人の価値観といえる。人びとの間で、価値観=体系に関して常に議論が割れる。
  3. 人間社会における価値体系の順位づけで支配的なのは、権力と財力。この二種目で下位になったものは、自尊心を満足できず、コンプレックスを持ちやすい。
  4. それを克服するには手段は二つしかない。 一つは死にもの狂いで、その順位戦に勝って上位にのぼること。もう一つは、この二種目が下位になるような価値体系を独自に作ってそれを信奉し、二種目にこだわる人をバカにすること。 
私はやはりこの中でも「お金」つまり財力が最も普遍に重要だとみなされる種目だと思う。それは数字という一義的で誰でも分かる指標があるからだ。これによって多くの人がコンプレックスを持つことになる。本心では自分のやっていることがもっとも価値があると思っていても(例えば、昆虫研究など)それが誰もが納得しやすい財力という種目のゲームではぜんぜん上へいけない。それでもそうした自分の道を進めるほどなにかに熱中できる人はいいが、普通はそうはいかない。

その難題は未だ解決されていない。

ICOなどに代表されるブロックチェーンにはこれを解決できる可能性がある、と私は思う。

いろいろな価値体系の経済圏を作ればいい。今、「お金」は、ドル、円、人民元、ユーロなどいろいろな通貨があるにせよ、グローバルで一義的な価値基準だ。とってもとーっても強力な価値基準。ドルの経済圏も円の経済圏も、たしかに価値体系は異なるが、現代のように簡単にいくらでも両替できる社会ではそれは一つの「お金」という価値体系としてまとめられる。

ICOなどトークンで、いろいろな価値体系の経済圏ができれば、全部を包括するような価値体系はなく、いろいろな価値体系が共存し、さらにいくつかの経済圏にまたがって生きることで誰もが自尊心を満足させることができる。

自分の周りの見えていることにコミットしたほうがいい。分からないことと、臨場感を持って理解できること、そこに区切りをつけることで道が開ける。なぜなら、広い範囲を見ようとするときりがない。地球の裏側ではいろんな問題やニーズがあるだろうし、国内でも自分が知らない問題などが沢山あることすら知らない。熱くなれるものをみんな探しがちだが、熱くなれること、つまりコミットできることとは、十分に理解できることである必要がある。そして、そういうものは自分が直接経験できること範囲なのだ。あまり、遠くに行こうとせずに、こうした原理を自覚して、自分の周りを意識しよう。

やりたいことだけやって生きることが推奨されるが、やりたいことなどない、という問題もよく見られる。

私もやりたいことをやるのがいい、というのは分かっていたし、もともと金のない生活でも問題のない性分なので、より「やりたいことだけ生きる」ということに関心をもっていた。もちろん好きなことは沢山あったが、でも、本当にそれだけやっていれば最高、と思えるようなものはなかった。

どうやったらやりたいことがみつかるのか。
やりたいことってなに。

やっていて楽しいこと、自分からやってしまうことは確かにある。しかし、そういうことも続けているとやっぱり問題はおこるわけだ。飽きもくる。だったら、そこで、それはやりたいことではなくなっているわけだから、違うことをやるのが正解になる。また見つけたやりたいことも同じようにすぐ問題に突き当たり終わる。これでは、やりたいことをやって生きることにはいつまでたっても到達できない。

われわれの心、というか意識状態はそもそもそんな構造をしていない。つまり、何か中に一つの(例えば、ナンバーワンテニス選手になる!のような)ベクトルを備えているわけではない。

しかし、

ふと思ったのだが、そういうものが自分にもある。たしかに、常に飯や女のことなども忘れるくらいに取り組んでしまうことが、たしかにあるのだ。

それは、実存について考えること、この被投的に始まっている生について、それにどう対処する、付き合っていくのがいいのだろうか、ということを考えることが好きだ。たしかにこれまでこのブログを10年以上もやっているが、その内容のほとんどが、実存の構造についてのもんだ。

なぜ、それに今まで自覚がなかったのだろうか。おそらく、それを直視できなかったのだろう。

これについて、その理由を考えると、2つある。
  1. 生の構造がどうなっているのか、と考えることが、一つの(趣味になるような)アクティビティであるということが斬新すぎる。そういう人はほとんどいない
  2. 生について考えるというような哲学は、何かに悩んでいるようなネガティブなイメージがある

一般的には、実存の構造を考えるとか、そこから派生する「どう生きるべきか」「この存在とは何か」などは答えのない問題であり、そんなことより今を楽しもう、とかいうような主張に打ち砕かれてしまう。自分もそういう風に考えることもあるが、やはりこの問いはおもしろいのは事実だ。自分がそれを楽しめるのであれば、誰がどういおうと関係ない。私は以後、自分の趣味やルーティンにしていることを「実存の最適化」について考えること、といおうと思う。

自分は毎日必ず1杯はスタバでコーヒーを飲むが、スタバのビジネスにとってはよい客だ。1杯は30元(510円)だから、1ヶ月で15,300円、1年で186,150円。死ぬまでに30年分くらいこれを続ければ5,584,500円。つまり、LTVは560万円くらいだ。

スタバは多くの人の生活に深く入っている。だから、長期的で安定したビジネスができる、みたいなことは言うつもりはない。こういう業界だと成功しやすいとかもいうつもりはない。

では何をいおうと思ったのだろうか。忘れてしまった。

まあ、でもこういう生活に(必要不可欠ではないが)密着した経験の提供の需要は社会の変動にかかわらずずっとある。私達の世代の後もその後も。だから市場の需要が飽和するみたいなことはない。それはいいことだ。

語学はどうだろうか。違う言葉が国や地域ごとに使われ、それらの交流がある限り必要なものであろう。どんどんと独学や無料で学べるインフラが整いつつあるが、それでもニーズはある。

まあ、なんか結局ビジネス的観点での話になってしまったな。こういう考え方はなるべくしたくないものだ。

たまにいい会社名はないかなと考えることがある。

ふと、株式会社ゲシュタルト、っていいなと思った。

ということはどうでもいいのだが、
さて、われわれ人間は、ソシュールの言葉で「ランガージュ」というシンボル化能力を持っている。つまり、ゲシュタルトを形成する力だ。同じようなパターンを何回もみると、その周りの環境のパターンと総合して、何かその本質のようなものを掴み、概念として獲得する。

それを一つの絶対値として把捉するのではなく、あくまでも他との関係との中でそれと特定できるような特質である。だから、言語は差異の体系だと言われる。

そう考えると、「楽しさ」「幸せ」という言葉が認識できるのは、その概念を取り囲むその他概念との差異が必要となる。つまりそれは、「苦しい」「つまらない」「孤独」などなどの語との違いから浮き彫りになる。そしてその背景には、明確な目標のもとに官僚的組織のもと体育会的な指導のもとビシバシ働くという経済構造が社会の軸にあった。しかし、物欲が満たされ意味の消費も飽和状態になってきた現代において、このような所謂大きな物語はなくなり、こうした「楽しさ」「幸せ」という概念を浮かび上がらせる土台が消えてしまった。

(こういった言語観の背景について、ソシュール的ではないが、山竹「本質直観とは何か??」が言語の本質をうまく説明している。本質直観(意味のリアリティを持った理解)が有効に働くには十分な経験、特に他者との調和した共有が重要だと言われている。もしある概念にリアリティを感じなければ、その概念を他者と共有した経験に乏しいということなのだ。)

実現されたとは言えないものの、アメリカ的な「自由」の概念が広く世界で理解され、多くの人が社会や政治の制度などにとらわれず生きたいように生きるのが良いということを知っている。そういう社会ではそもそも「つまらない」「めんどう」や先の概念等はない。もちろん、今でも仕事がどんどん降ってくる世界で生きていれば、その辛さとの裏腹に、「楽しく、幸せな」家族や友達との時間が輝く。

しかし、今では仕事自体を労働としてではなく、自分のストーリーとしてやることが既に「よし」とされるような社会なので、「苦しい」との差異で位置づけられた「楽しい」や「幸せ」という概念ではこれを表現できない。もしこうした自分の好きなような生きているような状態の心の状態を表すのであれば、それは「自由」かもしれないし、新しい概念が必要なのかもしれない。

過去には社会全体が「楽しい」や「幸せ」を目指す言語観(つまり世界をどう見るかなので世界観)が社会で共有されていたが、今はそうではない。無理にこうした概念を目掛けて生きることはリアリティを感じられないもの(ゲシュタルト化していないもの)を追い求めていて原理的に掴めないもの(幻想)を追求することになる。こうした指摘に共感を示す人は、まずは自分の世界観(言語観)を見直すところから始めるべきであろう。



東浩紀がyoutubeの動画で「哲学者とは普段合わない者同士のコミュニケーションを生じさせる」みたいなことを言っていたのを覚えている。哲学とは深く考えて、普遍的な原理を取り出すことを追い求めているのだから、たしかにこの定義はしっくりくる。そして、自分が哲学を勉強したのもたしかにそういう目的に向かっていたかもしれないと考えている。いろいろな人に普遍的に「よい」と思われる何かを作りたいという軸は物心がついたときから変わってない。世の中にはたくさん才能ある人がいる。一言でいうと、すごい!と思う人は沢山いる。しかし、彼らは自分周辺のコード内で凝り固まった存在だ。私はそういうのにあまりいい印象を持たない。この世界という場を共有している以上、普遍的な「よい」を目掛けたいのだ。そのためにいろいろな背景の人々とコミュニケーションをし、普遍的なものに近づきたい。行動が重要なので、哲学者という学者的な呼び方ではなく、哲学家とでもいえるだろうか。よくわからないけど。

むかし、高校の同級生がこんなことを言っていた。人間の多様性って大したことない、身長だって1〜2Mくらいの範囲しかないし、もっと10Mとか100Mがあってもいいのに、と。彼はただなんとなく適当に発言しただけだろうが、私にとって今でも覚えているし、このような感覚を自分の中に保持していた。だから、人間的な文化のレベルの違いをかなり小さな取るに足らないものと私は長らく思っている。例えば、日本と中国では外見は似ているが、物事の良し悪しの判断の基準や、人間関係など違いは多々ある。一般の生活において、列への並び方とか、ミスなく物事を進めるのがいいとか、そういう習慣的なことの違い。こうした違いを「大きな違い」と一般的には見做すのではないか。或いは、基本的に人間という物理的な生物という点で同じでこうした文化的なことを表面的な小さなことと、考える人も多いかもしれない。しかし、ただただ論理的に考えているだけではその判断は弱い。実際に、いろいろな文化に触れた上で結論すべきだ。私は、欧米や中国でこうした違いを体験しているが、さきの高校生のころの彼の発言と同じく、こうした文化の違いを取るに足らないものと捉えている。心の底から。世の中を見渡すとこういう違いの研究がたくさんなされている。文化や言語の違い、習慣や性格の違いなどに興味を持ち一生を捧げるものもいる。こういうことに興味を持つ理由が自分には分からなかった。ただ、最近、やっぱりこういう違いに少し興味を持つようになってきた。なんでだろう。もう少しこの変化についてしっかり考えたい。

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