33歳時点での人生哲学をまとめよう。人間、生きているうちのできるだけ早くに自分の考え方の軸を持ちたいものだ。いろいろな経験をする中で、ぶれないで安定して生きていきたいからだ。また、複雑で激動の時代、後ろの世代への助言としても少しでも貢献できればと思う。

私の場合、「生の見取り図」というキーワードで語っていきたい。つまり、私の問題意識は、「いま、ここ」というわれわれの存在の構造を把握したい、ということ。

「意識の流れ」「人間存在」ともいえるので、この現在進行中のこれを指す言葉の選択は難しいが、一般的な主観的な生ということで、「生」としよう。つまり、人間は、世界が素粒子で成り立ち、ビッグバンから始まったというような客観的な知識は二の次で、日々泣き笑い、怒り、喜び、悲しむという主観的な生をいきている。

この生はどのような構造を持っているのか。

ここでは、人生の「意味」問題の解決もなされる。人生に意味はあるのかと悩んでいる、或いは、そう考えてしまうと何かに真面目に取り組む気がなくなってしまう。そういう人たちへの処方箋でもある。

誰もが多かれ少なかれかれ行き当たるだろう「人生の意味問題」であるが、次のような人は3パターンの人間は、人生の意味問題に惑わされることはない。
  1. 衣食住が安定していない人→衣食住ゲームに熱中せざるを得ない
  2. 生活水準を高めるゲームに熱中している人
  3. 人間としての物語的なゲームに疑問を持たず熱中できる人
逆にいうと、この3つになれば人生の意味問題はない。

これについては、以前詳しくこのブログでまとめたことがあるので、結論だけ書きたい。

人生の意味は何か?という質問に対して、それは「〜のため」のように答えることはできない。宗教はそのように答えることができるが、それでは根本的な問題は残されたままだ。

もっと論理的に、合理的に考えてみると、そもそも「意味」の連続が生である、という結論になる。これはハイデガーという哲学者が自分の意識状態の構造を徹底して分析して取り出したものだ。われわれは何かを「意味」としてしか理解できない。眼の前のコップは、スタパの机の上にある私がいつでも手を伸ばせばとれるコップであり、なんの文脈もない、つまり意味のないコップなどない。

ゲームを遊ぶ
生は意味の連続だということがわかれば、あとはその意味の世界というゲームでどう遊ぶかが問題になる。よい意味の典型である「幸せ」を求めるゲームを楽しむ等。

ゲームのリアリティを高める
しかし、多くの人はゲームにコミットできない。それはゲームに対するリアリティが少ないからだ。いろいろな日々の経験の意味が”薄い”という問題だ。これが現代人の多くの人が陥っている問題だろう。
対策は2つだ。1つは、沢山人とコミュニケーションするとを中心に行動すること。こうすることで、自分が何者かわかってきて物語がはっきりしゲームへのリアリティが増す。もう一つは、自分の過去を分析して、自分がどういう人物か、この世界にいる私とはなんなのかをできる限り言語化する。これでも同じく物語性が強まり、ゲームへのリアリティが高まる。
要は先の1と2はゲームへのリアリティが高いのだ。1はそもそも生物的な生の危険から、ゲームへのリアリティが高まらざるを得ない。

以上、メモ書きチックになってしまったが、基本はこういう感じ。