今我々は毎日会社で働くことを当たり前のように考えているが、一昔前には自給自足に近く、週1,2働いて後は家でゴロゴロの生活であった。なぜこのような社会になったのだろうか。別に善悪の価値判断はない。資本主義の発生原因をマックス・ウェーバーはキリスト教の予定説だとしている。以下、小室氏の解説とともに資本主義の発生を見てみよう。おのずと日本が資本主義もどきであり、欧米のそれとは違うことが分かる。

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■資本主義の発生
資本主義は、民主主義とともにキリスト教の予定説から生まれた。資本主義というのは単に技術が進み、産業が勃興し、経済が盛んになれば自然に生まれてくるものだと思われがちだが、それは違う。成立にはプロテスタンティズムという起爆剤が必要であった。これはマックス・ウェーバーが立証した。

過去に、産業が発展し、資本が蓄積されたような状況は多くあったがそこでは資本主義は生まれなかった。近代ヨーロッパ以外にも多くの場所で経済が発展したのに資本主義はなかった。中国では春秋戦国時代から宋にかけて経済は盛んになり世界一になった。宋では大運河がいくつも造られて各地に世界最大規模の商業都市が誕生した。さらに学問は朱子学を中心に多種多様なものが生まれたし美術においても発達した。しかし、中国には資本主義は発生しなかった。アラブ世界も同じ。アラブ世界もかつてはヨーロッパとはケタ違いの経済力、文化力を持っていた。

このような元手としての蓄積されただけの資本を前期的資本という。これらはいくら一箇所に集まってもそこに資本主義の精神が注入されない限り、それはいつまで経っても前期的資本のままで近代資本主義にはならない。では、近代の資本主義の精神はどういうところで生まれるか。それは、徹底的に資本に敵対的な経済学説が公然と支配してきた地域である。すなわち金儲けを真っ向から否定する思想がなくてはならない。(これは、民主主義の平等や人権という概念が生まれるのに人間の価値を徹底的に否定する予定説が必要だったことと似ている。)

詳しく見てみよう。そもそも予定説が現れる前からキリスト教では金儲けを許さなかった。それは聖書に書いてあるからだ。儒教やイスラム教には金儲けを禁止していないので資本主義は生まれない。

キリスト教が堅く利潤追求を禁止していたが、世の中には商業も金貸しも必要である。そこで徐々にこうした規制はゆるんでいき中世カトリック教会ともなれば抜け穴だらけになった。象徴的なのは世界の富の10%を所有した南ドイツのフッガー家。これだけ巨大な前期的資本が誕生しても当時のカトリック教会花にも言わない。なぜならこうした金持ちはどんどん教会に献金していたから。

そこでカルヴァンの予定説が現れる。富は絶対によくない金を持つと人間は堕落する生活は徹底的に質素にしてほんのすこしの楽しみも避けるべきだとして、禁令を出した。その結果生活からすべての娯楽が排除された。当時のジュネーブ市民はカルヴァン主義の牙城だったのでみんなこれを受け止めた。こうしてジュネーブ市民は全ての娯楽を捨て、ただただ質素に暮らしていた。

ここで面白いことに、こうした人々はお金を使わないので出費が減ってお金がたまっていく。当時は要するに金というのは自分の生活を支えるのに必要な分だけを稼いでいればよかったので、職人などにしても週1とか2くらいだけ働き日銭を稼いであとは家でゴロゴロしていた。それにキリスト教特有の金銭倫理があるから必要以上に金を稼ぐのは悪徳だと思われていた。

ところが、予定説を信じた人は違った。安息日以外の6日働きまくった。というのも予定説においては全ての人間の人生はあらかじめ神が定めたものであり、だったら自分の職業もまた神が選んでくれたものに違いない。これを天職または召命という。この考え方はプロテスタンティズム以前にはなかった。自分の仕事が天職であるならば怠けているわけにはいかない。働いて働きまくることが神様のみ心にそう方法。もともとキリスト教には労働こそが救済の手段であるという思想がある。働かざるもの食うべからずというのはキリスト教修道院の戒律だ。こんな思想は仏教にはない。仏教では働かなくても食ってよいし、それどころかインド仏教では経済活動を禁止し、お布施で暮らしていた。

労働することが修行につながるというこのキリスト教独特の考えを行動的禁欲という。自分に与えられた天職を一生懸命に行い他の喜びをすべて禁欲する。それが神の御心に沿うことだとされた。しかも予定説では救済されているかどうかは人間には知り得ないとされていたので、自分の仕事を天職だと信じて一生懸命に働いても本当は自分が救われているかいないのか自信がない。それは最後の審判まで分からない。そういう状況に置かれると人間は気が狂ったように働く。どれだけがんばって働いても救いの確信は得られない。だったら少しでも気持ちが落ち着くために働く以外の道がないではないか。ちょっと手を休めるとこんなことでは救われないのではないかと不安になり、熱心に働いている間だけはそうした不安も和らぐので一心不乱に働く。(そういうもんなのか?と疑問はあるが)

■隣人愛の実践
労働はキリスト教が教える隣人愛の実践にも繋がる。なぜなら他人が求める商品やサービスを提供すればそれだけ隣人愛を行ったことになる。だからますます働くことは正しくなった。ヨーロッパで定価販売が広まったのもここから。こうしたやり方でプロテスタントたちは隣人愛を実践してきた。そして自分の隣人愛の高さを確認するためにより多くの利益を上げようと考えた。カルヴァンは本来富を激しく否定していたが、それがかえって利潤の追求をゆるすようになった。

予定説はあくまでも信仰であり人間の内面に関わる問題であるが、これを信じると外面に現れる行動そのものも変わってしまう。これまで見てきたように働き者になる。これをエートスの変換という。要は、中国やアラブのようにいくら前期的資本が蓄積してもそこにエートスの変換がないと資本主義は生まれない。エートスの変換こそが資本主義を創るのである。予定説により人々の間に労働は救済であり隣人愛の実践であるという考えが生まれる。そしてがむしゃらに働くのではなく利潤を最大化するために何をすべきが合理的に考えるという精神も生まれた。こうして複式簿記というシステムが生まれたりもっと数学的に客観的に事業を把握しようとなってくる。

資本主義にしても民主主義にしてもその根っこを掘っていけば必ずキリスト教に突き当たる。キリスト教の神があって初めて人間は平等だという観念が生まれるのだし、また労働が救済に繋がるという考えがなければ資本主義は生まれない。

■契約について理解できるのは聖書わかっている人だけ
欧米人の考える契約とは言葉そのものであり、言葉によって明確に定義されないかぎりそれは契約と呼べない。要するに契約とは言葉なのだ。日本ではだまって俺について来い、である。中国も日本に近い。三国志演義の劉備、関羽、張飛の桃園の契のようにオレの目を見ろ、何も言うな的な約束である。桃園の契には何も取り決めがないので契約違反は起こりようがない。ヨーロッパでは考えられない。ヨーロッパでは先も述べたように王と騎士は契約で、王が捕虜になったらいくら身代金払います、など言葉によって結ぶものなのだ。

なぜヨーロッパではそうなのかというと、それは聖書があったから。ユダヤ教もキリスト教も契約なのだ。旧約聖書とは要するに神様との契約を破ったらどんなにひどいことにあうかという実例がこれでもかと書いてある。なので旧約聖書の教えはこんな目に会いたくなければ神様との契約を守れ、とその一点である。それを子供の頃から教え込まれる西欧の人々は契約は絶対に守らなければいけないというエートスを身につける。また、契約とは言葉にして結ぶものであるということが頭にインプットされる。なので、欧米人たちは人間同士が結ぶ契約についてもやはり同じように守らなければいけないと感じる。

逆に、日本や中国では契約を破ったら大変なことになるという教えを書いた本はどこにもない。ましてや契約とは言葉で表すものであるということを教えるサンプルもない。だから日本人にしても中国人にしても契約を本気で守らなければならないというエートスが生まれてこない。憲法という大事な契約が無視されても平気なのだ。場合によっては契約を破ってもしかたがないと心のなかで思っているのは日本でも中国でも同じ。人間同士の契約の絶対がないという問題があると民主主義と資本主義はねづかない。日本は形だけは近代国家の体裁になっているが、その根底には契約という概念がない。だから政治家は約束守らないし国民も公約破りに目くじらを立てない。