記述の基体(がらくた)

※基本自分の備忘のために書いています。殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。

東浩紀がyoutubeの動画で「哲学者とは普段合わない者同士のコミュニケーションを生じさせる」みたいなことを言っていたのを覚えている。哲学とは深く考えて、普遍的な原理を取り出すことを追い求めているのだから、たしかにこの定義はしっくりくる。そして、自分が哲学を勉強したのもたしかにそういう目的に向かっていたかもしれないと考えている。いろいろな人に普遍的に「よい」と思われる何かを作りたいという軸は物心がついたときから変わってない。世の中にはたくさん才能ある人がいる。一言でいうと、すごい!と思う人は沢山いる。しかし、彼らは自分周辺のコード内で凝り固まった存在だ。私はそういうのにあまりいい印象を持たない。この世界という場を共有している以上、普遍的な「よい」を目掛けたいのだ。そのためにいろいろな背景の人々とコミュニケーションをし、普遍的なものに近づきたい。行動が重要なので、哲学者という学者的な呼び方ではなく、哲学家とでもいえるだろうか。よくわからないけど。

むかし、高校の同級生がこんなことを言っていた。人間の多様性って大したことない、身長だって1〜2Mくらいの範囲しかないし、もっと10Mとか100Mがあってもいいのに、と。彼はただなんとなく適当に発言しただけだろうが、私にとって今でも覚えているし、このような感覚を自分の中に保持していた。だから、人間的な文化のレベルの違いをかなり小さな取るに足らないものと私は長らく思っている。例えば、日本と中国では外見は似ているが、物事の良し悪しの判断の基準や、人間関係など違いは多々ある。一般の生活において、列への並び方とか、ミスなく物事を進めるのがいいとか、そういう習慣的なことの違い。こうした違いを「大きな違い」と一般的には見做すのではないか。或いは、基本的に人間という物理的な生物という点で同じでこうした文化的なことを表面的な小さなことと、考える人も多いかもしれない。しかし、ただただ論理的に考えているだけではその判断は弱い。実際に、いろいろな文化に触れた上で結論すべきだ。私は、欧米や中国でこうした違いを体験しているが、さきの高校生のころの彼の発言と同じく、こうした文化の違いを取るに足らないものと捉えている。心の底から。世の中を見渡すとこういう違いの研究がたくさんなされている。文化や言語の違い、習慣や性格の違いなどに興味を持ち一生を捧げるものもいる。こういうことに興味を持つ理由が自分には分からなかった。ただ、最近、やっぱりこういう違いに少し興味を持つようになってきた。なんでだろう。もう少しこの変化についてしっかり考えたい。

私は本質主義者だ。

いや、本質主義を理想としている、といったほうがいい。まだ本質主義的に生きられていないかもしれないから。

では、本質主義とは何か。これは哲学やら社会学やらいろいろな定義があるだろうが、私は次のように定義したい。つまり、実存的視点を最優先に考える、ということ。実存とは、喜怒哀楽など日々の感情をベースにした意識の流れとでもいえるだろう。

この世界が事実としてどうなっているか、つまり客観的なこと、つまり多くの人が納得するような事柄、は、この”私”にとって基本的には重要ではない。これらのあまり重要でないことが、真実として追求されがちである。

人は多くの場合、真実を実存より優先させる。でも、われわれの実存に関係のない真実は重要ではない。そんなことに気を使うことは不要な苦労である。

本質主義とは、実存を最優先に考える。自分の実存もそうだし、他者とコミュニケーションするなら、その他者も実存的世界を生きていることを意識する、ということだ。

みんなが本質主義者になるべきだ。私は最近、中国人の多くが本質主義者だと思っている。

中国人はなかなか人を信頼しない。だから、日本人のように初対面でも親切にしてくる人がいるとバツが悪そうな表情をする。

これはただただ中国が無秩序だから初対面の人を警戒している、というわけではない、ということに最近気づいた。

よくよく考えると、日本人でも自分の周りの人間がどれほど自分のことを知っていて考えてくれているだろうか。何かアドバイスしてくれる人は、知識を教えてくれる人は沢山いるが、その人はどれほど私のことを考えているか?どれほど責任をとってくれるのか?よくよく考えると、けっこう適当であることが明らかになる。

まずは、いろいろな問答や交流を繰り返しその人との信頼関係を築く、築けないのであれば離れる。信頼を気づいて初めてその人の私に対する言動に重みが出てくるのだ。日本に限らないだろうが、〜すべき、〜したほうがいい、〜はだめだ、というような言説のほとんどは自分の主張を通すと利益があるものの戯言にすぎない。

「自由」は古代からずっと人間社会において最重要なキーワードであった。

幸せに生きたい
金を稼ぎたい
質素な生活をしたい
派手に生きたい

人は各自それぞれ好きなように生きたいのだ。

つまり、一番重要なことは「自分の好きなように生きる」という「自由」なのだ。

それは、「幸福」や「善」などの重要概念よりも最も原理的な価値だ。

この「自由」を軸に社会は築かれるべきだ。

相手の自由を尊重した上で自分も自由に生きる。

実は、日本やその他の先進国では自由を掲げているものの、他者への干渉が多い。自由が最重要であれば、頬って置いていいようなことにまで口出し手出しすることがある。

逆に「自由」後進国のようにみえる中国では、誰もが「自由」を相互承認している。相手がやりたいことは自分に直接的に害がなければ認める。口出ししない。

これは徹底している。どんなレベルの人でも。

日本人のように口では自由を言うのとは異なり、自由の相互承認の感覚がエートスとして身についているのだ。これはすごいことだと思う。

われわれが意図的に行うことは全て「行為」であり、それは言語的な世界を土台に行われるので「言語行為」といえる。逆に意図を伴わないものは「行動」といえる。

われわれは自分の「物語」を持って、生きている。あらゆる認識は、この「物語」に照らし合わせて無自覚的に了解され、さらに自覚的に解釈される。雇われの労働者としての物語で生きていれば、あらゆる仕事がだるいだろうが、将来経営者を目指すために学んでいるという物語で動いていれば、いろいろなことに意義を見いだせる。お金がなくなれば、将来大きなことして回収できるんだから、友達を説得して金を借りたり、投資を受けることも可能だろう。

では、この「物語」はどうやって自分の中に根付いていて、どうやって更新されるのか。それは幼いころ、言語の世界に入ったときの全知全能の物語が軸となり、その後、様々な言語行為と他者との言語行為によって更新され続けている。

仏教に阿頼耶識という考えがある。あらゆる言動はすべて心に刻まれる。ふと思いついてしまった悪巧みや、老人に電車で席を譲ること、人に真摯に接さなかったこと、あらゆることが阿頼耶識というデータベースに刻まれる。これが、物語の大本だ。

自分がどういう物語を生き、その物語により日々どういう実存経験をしたいか、それを考えるべきだ。そしてそのためにはデータベースに何を書き込む必要があるのか。それで今日何すべきかがわかる。

われわれの一挙一動は、このデータベースからなる「物語」を紡ぐ小さい且つ長期的には大きな影響を持つ言語行為なのである。

「それは本質的だ」とか「本質を突いている」とか褒めるためによくこういう発言を耳にするだろう。

では、「本質」って何?「本質」を突いていたら何がいいの?


と、突っ込まれたらどれだけの人が答えられるだろうか。


私は「本質」というキーワードを哲学研究においてかじっていたからこれに答えようと思う。

私なりに答えるなら、本質とは、最終的に個人の主観的な体験(或いは経験)に立ち返って考える、ということだ。

主観とはようするに、情状性を伴った了解、解釈である。本質的に考えると、多くの人にとってある人は騙されていると思われていても、本人の主観で幸せならそれでいい、というような発想も可能。

何か多数の人が議論する場合、その一人ひとりの主観に常に立ち返って考えるということ、これが本質的な思考なのである。

一言でいえば、それは「意識ファースト」といえる。個人個人の「意識状態」を最優先で、議論の出発点として考えることが本質的だといえる。

生きていく上で、昔から何か方向性が定まらなくてもやもやしていたけど、30すぎると徐々に自分のしてきたことにオリジナリティが出て、ある方向性に確信を持てるようになる。

方向性が定まらないのは自分だけの問題かとも思っていたが、これは近代化の必然的な結果であることが理解できた。そしてインターネット時代では情報が溢れ様々な可能性がちらつく。一本の道にコミットするなど不可能に近い。

でも、いろいろ頑張って経験を積んでいけば自分の強みがわかってくる。そして世界や社会においての自分の位置づけも徐々にわかってくる。これは私が特別いろんな経験をしてきたからではないだろう。誰でも時間は平等だ。32歳くらいになればだいたいみんなそうなるんじゃないだろうか。昔、とある大先輩が30くらいはぶらぶらしていればいい。30超えてから何かにコミットすればいい、といってくれたから自分はいろいろなことに取り組んでこれた。みんな若いうちはいろいろ挑戦すればいいと思う。

プロ奢られいやーの人が以下のようなツイートをしていた。

狂っている人間が”狂ったまま”でメシを食っていけるような土壌をつくっていきたい。手段はなんでもいい。すでに腐った人間の「社会に適応しろ」なんて言葉を鵜呑みにしないでくれ。いまいる社会に適応しなくても、別の社会にいけばいいんだから。とにかくそのまま狂い続けてくれ。マジで大丈夫だから。

この人、いつもとてつもなく本質的なことを言っている。

これについて私なりに解説してみる。

この人の直感にはいかのようなことが前提になっているのだろう。

物理法則がこの世界での根本原理だとしよう。物理法則に従っているものは、正しい。つまり、われわれはやりたいことだけやろうとすればするほど、物理法則に従うことになる。やりたくないことをやっているのは、物理法則に逆らっていることになる。 

われわれはみんな自分が生まれ落ちた地の自然環境や社会的環境において自らの「世界」を築いていく。一人一宇宙である。だから、その一人一人の「世界」は他者の「世界」と調和するとは限らないし、おうおうにして違ったものになる。

奢られプロが言っているのは、どこかにいけばその人の「世界」に共感してくれる人がいるはずだ、ということ。なぜなら、本当にそのことが好きでやっているということは、物理法則に従っている証拠だからだ。感情など自分でコントロールできない降ってくるもの。これは世界の原理に沿っている。それを大切にしながら生きていれば、必ず他の「世界」の人も共感してくれる。なぜなら、あらゆる「世界」に共通しているのが物理法則だからだ。

しかし、多くの人が自分のうちでどの部分が物理法則に従ったところなのかを見失っている。

第二言語習得の分野でi +1理論というのがある。自分が7−8割くらい理解できるくらいのインプットをすることで語学力がUPするということ。というか、むしろこれでしかUPしないという理論。

私はこれを概ね信じているが、よく考えるとあらゆる体験や経験においても示唆のある理論だ。

語学で一番楽しいのはたしかにこの状況である。私の経験からしても。
これは経験一般に敷衍できるだろう。

ドワンゴの川上さんがコンテンツは「わかりそうでわからない」のが一番いいといっていた。
また、プロ奢られいやーさんも既知 8 未知2が一番おもしろいと言っている。

そう考えると、われわれ個人個人の経験やもって生まれたもの、それにより作られた今の価値観などはもちろん各々異なっている。

では、本当に面白い経験とは何かといえば、それはカスタマイズしなくてはいけない。

コーチングとは、その人を理解し、i+1を設計してあげる人なのであり、それはダイエットや語学など具体的な目標のためにだけ使うべきものではなく、むしろ善く生きるために必要なものだと思った。

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