記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

むかし、高校の同級生がこんなことを言っていた。人間の多様性って大したことない、身長だって1〜2Mくらいの範囲しかないし、もっと10Mとか100Mがあってもいいのに、と。彼はただなんとなく適当に発言しただけだろうが、私にとって今でも覚えているし、このような感覚を自分の中に保持していた。だから、人間的な文化のレベルの違いをかなり小さな取るに足らないものと私は長らく思っている。例えば、日本と中国では外見は似ているが、物事の良し悪しの判断の基準や、人間関係など違いは多々ある。一般の生活において、列への並び方とか、ミスなく物事を進めるのがいいとか、そういう習慣的なことの違い。こうした違いを「大きな違い」と一般的には見做すのではないか。或いは、基本的に人間という物理的な生物という点で同じでこうした文化的なことを表面的な小さなことと、考える人も多いかもしれない。しかし、ただただ論理的に考えているだけではその判断は弱い。実際に、いろいろな文化に触れた上で結論すべきだ。私は、欧米や中国でこうした違いを体験しているが、さきの高校生のころの彼の発言と同じく、こうした文化の違いを取るに足らないものと捉えている。心の底から。世の中を見渡すとこういう違いの研究がたくさんなされている。文化や言語の違い、習慣や性格の違いなどに興味を持ち一生を捧げるものもいる。こういうことに興味を持つ理由が自分には分からなかった。ただ、最近、やっぱりこういう違いに少し興味を持つようになってきた。なんでだろう。もう少しこの変化についてしっかり考えたい。

私は本質主義者だ。

いや、本質主義を理想としている、といったほうがいい。まだ本質主義的に生きられていないかもしれないから。

では、本質主義とは何か。これは哲学やら社会学やらいろいろな定義があるだろうが、私は次のように定義したい。つまり、実存的視点を最優先に考える、ということ。実存とは、喜怒哀楽など日々の感情をベースにした意識の流れとでもいえるだろう。

この世界が事実としてどうなっているか、つまり客観的なこと、つまり多くの人が納得するような事柄、は、この”私”にとって基本的には重要ではない。これらのあまり重要でないことが、真実として追求されがちである。

人は多くの場合、真実を実存より優先させる。でも、われわれの実存に関係のない真実は重要ではない。そんなことに気を使うことは不要な苦労である。

本質主義とは、実存を最優先に考える。自分の実存もそうだし、他者とコミュニケーションするなら、その他者も実存的世界を生きていることを意識する、ということだ。

みんなが本質主義者になるべきだ。私は最近、中国人の多くが本質主義者だと思っている。

中国人はなかなか人を信頼しない。だから、日本人のように初対面でも親切にしてくる人がいるとバツが悪そうな表情をする。

これはただただ中国が無秩序だから初対面の人を警戒している、というわけではない、ということに最近気づいた。

よくよく考えると、日本人でも自分の周りの人間がどれほど自分のことを知っていて考えてくれているだろうか。何かアドバイスしてくれる人は、知識を教えてくれる人は沢山いるが、その人はどれほど私のことを考えているか?どれほど責任をとってくれるのか?よくよく考えると、けっこう適当であることが明らかになる。

まずは、いろいろな問答や交流を繰り返しその人との信頼関係を築く、築けないのであれば離れる。信頼を気づいて初めてその人の私に対する言動に重みが出てくるのだ。日本に限らないだろうが、〜すべき、〜したほうがいい、〜はだめだ、というような言説のほとんどは自分の主張を通すと利益があるものの戯言にすぎない。

「自由」は古代からずっと人間社会において最重要なキーワードであった。

幸せに生きたい
金を稼ぎたい
質素な生活をしたい
派手に生きたい

人は各自それぞれ好きなように生きたいのだ。

つまり、一番重要なことは「自分の好きなように生きる」という「自由」なのだ。

それは、「幸福」や「善」などの重要概念よりも最も原理的な価値だ。

この「自由」を軸に社会は築かれるべきだ。

相手の自由を尊重した上で自分も自由に生きる。

実は、日本やその他の先進国では自由を掲げているものの、他者への干渉が多い。自由が最重要であれば、頬って置いていいようなことにまで口出し手出しすることがある。

逆に「自由」後進国のようにみえる中国では、誰もが「自由」を相互承認している。相手がやりたいことは自分に直接的に害がなければ認める。口出ししない。

これは徹底している。どんなレベルの人でも。

日本人のように口では自由を言うのとは異なり、自由の相互承認の感覚がエートスとして身についているのだ。これはすごいことだと思う。

われわれが意図的に行うことは全て「行為」であり、それは言語的な世界を土台に行われるので「言語行為」といえる。逆に意図を伴わないものは「行動」といえる。

われわれは自分の「物語」を持って、生きている。あらゆる認識は、この「物語」に照らし合わせて無自覚的に了解され、さらに自覚的に解釈される。雇われの労働者としての物語で生きていれば、あらゆる仕事がだるいだろうが、将来経営者を目指すために学んでいるという物語で動いていれば、いろいろなことに意義を見いだせる。お金がなくなれば、将来大きなことして回収できるんだから、友達を説得して金を借りたり、投資を受けることも可能だろう。

では、この「物語」はどうやって自分の中に根付いていて、どうやって更新されるのか。それは幼いころ、言語の世界に入ったときの全知全能の物語が軸となり、その後、様々な言語行為と他者との言語行為によって更新され続けている。

仏教に阿頼耶識という考えがある。あらゆる言動はすべて心に刻まれる。ふと思いついてしまった悪巧みや、老人に電車で席を譲ること、人に真摯に接さなかったこと、あらゆることが阿頼耶識というデータベースに刻まれる。これが、物語の大本だ。

自分がどういう物語を生き、その物語により日々どういう実存経験をしたいか、それを考えるべきだ。そしてそのためにはデータベースに何を書き込む必要があるのか。それで今日何すべきかがわかる。

われわれの一挙一動は、このデータベースからなる「物語」を紡ぐ小さい且つ長期的には大きな影響を持つ言語行為なのである。

「それは本質的だ」とか「本質を突いている」とか褒めるためによくこういう発言を耳にするだろう。

では、「本質」って何?「本質」を突いていたら何がいいの?


と、突っ込まれたらどれだけの人が答えられるだろうか。


私は「本質」というキーワードを哲学研究においてかじっていたからこれに答えようと思う。

私なりに答えるなら、本質とは、最終的に個人の主観的な体験(或いは経験)に立ち返って考える、ということだ。

主観とはようするに、情状性を伴った了解、解釈である。本質的に考えると、多くの人にとってある人は騙されていると思われていても、本人の主観で幸せならそれでいい、というような発想も可能。

何か多数の人が議論する場合、その一人ひとりの主観に常に立ち返って考えるということ、これが本質的な思考なのである。

一言でいえば、それは「意識ファースト」といえる。個人個人の「意識状態」を最優先で、議論の出発点として考えることが本質的だといえる。

生きていく上で、昔から何か方向性が定まらなくてもやもやしていたけど、30すぎると徐々に自分のしてきたことにオリジナリティが出て、ある方向性に確信を持てるようになる。

方向性が定まらないのは自分だけの問題かとも思っていたが、これは近代化の必然的な結果であることが理解できた。そしてインターネット時代では情報が溢れ様々な可能性がちらつく。一本の道にコミットするなど不可能に近い。

でも、いろいろ頑張って経験を積んでいけば自分の強みがわかってくる。そして世界や社会においての自分の位置づけも徐々にわかってくる。これは私が特別いろんな経験をしてきたからではないだろう。誰でも時間は平等だ。32歳くらいになればだいたいみんなそうなるんじゃないだろうか。昔、とある大先輩が30くらいはぶらぶらしていればいい。30超えてから何かにコミットすればいい、といってくれたから自分はいろいろなことに取り組んでこれた。みんな若いうちはいろいろ挑戦すればいいと思う。

プロ奢られいやーの人が以下のようなツイートをしていた。

狂っている人間が”狂ったまま”でメシを食っていけるような土壌をつくっていきたい。手段はなんでもいい。すでに腐った人間の「社会に適応しろ」なんて言葉を鵜呑みにしないでくれ。いまいる社会に適応しなくても、別の社会にいけばいいんだから。とにかくそのまま狂い続けてくれ。マジで大丈夫だから。

この人、いつもとてつもなく本質的なことを言っている。

これについて私なりに解説してみる。

この人の直感にはいかのようなことが前提になっているのだろう。

物理法則がこの世界での根本原理だとしよう。物理法則に従っているものは、正しい。つまり、われわれはやりたいことだけやろうとすればするほど、物理法則に従うことになる。やりたくないことをやっているのは、物理法則に逆らっていることになる。 

われわれはみんな自分が生まれ落ちた地の自然環境や社会的環境において自らの「世界」を築いていく。一人一宇宙である。だから、その一人一人の「世界」は他者の「世界」と調和するとは限らないし、おうおうにして違ったものになる。

奢られプロが言っているのは、どこかにいけばその人の「世界」に共感してくれる人がいるはずだ、ということ。なぜなら、本当にそのことが好きでやっているということは、物理法則に従っている証拠だからだ。感情など自分でコントロールできない降ってくるもの。これは世界の原理に沿っている。それを大切にしながら生きていれば、必ず他の「世界」の人も共感してくれる。なぜなら、あらゆる「世界」に共通しているのが物理法則だからだ。

しかし、多くの人が自分のうちでどの部分が物理法則に従ったところなのかを見失っている。

第二言語習得の分野でi +1理論というのがある。自分が7−8割くらい理解できるくらいのインプットをすることで語学力がUPするということ。というか、むしろこれでしかUPしないという理論。

私はこれを概ね信じているが、よく考えるとあらゆる体験や経験においても示唆のある理論だ。

語学で一番楽しいのはたしかにこの状況である。私の経験からしても。
これは経験一般に敷衍できるだろう。

ドワンゴの川上さんがコンテンツは「わかりそうでわからない」のが一番いいといっていた。
また、プロ奢られいやーさんも既知 8 未知2が一番おもしろいと言っている。

そう考えると、われわれ個人個人の経験やもって生まれたもの、それにより作られた今の価値観などはもちろん各々異なっている。

では、本当に面白い経験とは何かといえば、それはカスタマイズしなくてはいけない。

コーチングとは、その人を理解し、i+1を設計してあげる人なのであり、それはダイエットや語学など具体的な目標のためにだけ使うべきものではなく、むしろ善く生きるために必要なものだと思った。

ビジネス界において、リクルートの藤原和博さんの「レアカードにならないと稼げない」という話をしらない人は少ないだろう。以下の動画で見れるし、こちらで講演の全文も読める。



藤原さんによると、100万人に1人の希少性のある人材になれば、大体年収1000万から1億円ぐらいは絶対いくという。そして一つの分野で100万人に1人になるのはオリンピックに出るようなもので非常に過酷な競争であるが、まずは100人に1人を目指し、3つの領域でそれを実現すれば100の3乗で100万人に1人の逸材になるという。

一つの分野で100人で1番になるには、大体1万時間かかるという。これは長いか?短いか?1日3時間やる、365日やったら1000時間。そしたら10年。1日6時間ずつ取り組んだら5年なのだ。

藤原さんの場合、20代で営業とプレゼンで100人に1人になり、
27歳から37歳までマネジメントをやってさらに、100分の1、
そして、
第3の分野として、
「リクルート流の営業プレゼンとリクルート流のマネジメントをまったくリクルート流じゃないところ、ノンプロフィットの世界で試したらどうなるかっていうことに賭けた」
という。

ここで藤原さんの和田中学での実績は述べないが、この第3領域でも成功し、100万人に1人の人材になった。

今日は、この考え方が金を稼ぐというよりも、もっと広く生を充実するためにも非常に重要であることを主張したい。生が充実するとは、ようするに、幸せにいきる、ということとほぼ同じ。ただ、人間の意識状態は常に幸せになることはできないので、全体として「よい」といえるような生を、充実した生を自分は呼んでいる。

なぜ生の充実に、この3つの領域の掛け算が必要なのか。

それは、現代において、「俺がやらなきゃ誰がやる」というような機会がほとんど存在しないという問題がある。現代は自由の時代だ、みんな人に迷惑をかけなければ何をしてもいい。どんな生き方をしてもいいのだ。しかし、その物語が他者に承認されていなければだめで、その承認も、お金を稼げるというくらいまで一般化されなければ物理的にもサバイブできないのだ。

現代は、自由過ぎて、いろいろな生き方がある。情報に敏感な人ほど新たな機会に目を奪われ自分の生き方にコミットできなくなる。

私はけっこう幅広く、ベンチャー界隈の経営者や従業員、いわゆるエリート大企業、中堅の企業、中小企業、マイルドヤンキー、学生など交流しているつもりだが、ある程度「情報が入ってくる人たち」は、自らの進路に疑問を持つ可能性が高い。情報が入ってくるとは、同年代の他者などの自分とは違った生き方についての情報。それが一次的な情報であればあるほど大きい。エリートサラリーパーソンやベンチャー界隈の人は人と会うことが多いのでそういう傾向にある人が多い。逆にマイルドヤンキーやニートなどは、ある種情報が限られており、自分から新しい環境へも行こうとしないので、今の世界への臨場感が強い。要は世界観が凝り固まっており善悪の基準が明確。あとはその世界で頑張るか否かだけが問題となる。

自分の経験について述べる。

自分が今まで生きてきて幼い頃から変わってないエートス(行動規範、心の習慣)は、自分がやらなくても誰かがやると思えることは、やる気にならない、ということ。同時に、誰でもあると思うが、何か世の中を良くしたいとか、あっと言わせたいという欲望もある。現代においては、誰しもがこの2つのベクトルの間で揺れ動いているのではないか。ある程度、こうすればこうなるという場所で働かないと金を稼げない。一方で誰でもできるならなんか自分としては身が入らない、というのは近代以降の根本的な問題であろう。

そこで、
3つの領域の掛け算の経験が重要となる。これだけ経験を積むことで、初めて「俺がやらなきゃ誰がやる」という何かへの情熱が生まれるのであるから。現代において様々な情報の中でなにかにコミットするのは難しい。だから実体験で自らの経験を積み、その中で確固とした方向性を強めていくのがよい。もちろん、人間生きていれば誰しも何かしらの経験を積むので、30くらいになったら大体方向性を見出すかもしれない。でもそれがあまりにも現代資本主義社会のルールと異なることであればサバイブ自体も難しくなる。それゆえ、藤原さんのいうような戦略はよいし、今述べたように実存的な観点でも重要だ。

人は物語が安定していないと生が充実しない。安定しない。われわれはあらゆるものを自分の物語に沿って認識する。外部情報だけでなく内的な情報もだ。毎度異なる物語を拵えていては認識がばらばらとなり生は充実しない。まずは物語を安定させて、初めてわれわれは山登りを始められる。現代においては山登りすらまだ始めておらずふらふらとさまよっている人も多い。

正直、藤原さんのいう100人の1人というためのスキルの定義の明確度とそのレベルをどう測るかはなかなか難しい。自分は32だが100人の1人のスキルを何か持っているだろうか。それを労働市場的な観点から見ると判断が難しいが、費やした時間からすればインターネットビジネス✕哲学✕中国にはそれなりに時間をかけてきた。まだまだ専門性を持っているとはいえないので、この分野で自己の物語を確立していきたいと思っている。

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