記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

なにかすごいものはどうやって作れるのか。

答えは、おそらく「そんなこと考えているやつには作れない」ということなのだろう。

しかし、少し考えてみたい。

なにかを「サービス」として提供しようとすると、それはなにか明確に測れる良し悪しの基準を作らなくてはならない。そうしないと、その「サービス」を再生産しつづけて提供し続けることができないからだ。しかし、人によってよいと感じるものは違うし、そのサービスを体験するときの状況はコントロール不可能なことから、ユーザーにどのような体験を与えるかは制御できない。

資本主義の一つの問題は全てを金銭的価値に還元することだ。トヨタ、グーグル、花王、百度、ネスカフェ、任天堂、テンセント、ソニーなど全然違う価値を提供している会社が一つの時価総額で測られている。国の運営もそうだ。GDPを目標に成長してきた日本の国民は実存的に充実しているか?ようは、幸せなのか?この問題は幸福度を指標にしているブータンのような国にも原理的につきまとう問題であるが、現状、これが最善の方法だと思われる。

人間の実存充実度を測るいい方法はないのか。もし私の物語相関理論で考えればどうなる?おそらく「幸福度」より、本質的な指標が作れるが、これも原理的には「価値観確定」のワナから抜け出せていない。

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さて、
語学サービスを作る以上、語学力を測るものが必要となる。これをTOEICとかTOEFLとかJLPTとかで測っていてはユーザーのためにはならない。語学サービスの本質的な問題は、ユーザー自分自身も理想的な未来の自分が分からないことだ。ぺらぺらになりたい、といってもそれが具体的にどういうことかを説明できればそれは実現可能な目標だし、そうであれば独学で十分できる。よくわからないから、とりあえず学校にいくのだ。

こういう、サービス設計において価値観が確定できない場合、どうすればいいか?

回避方法は2つある。

一つは、
そういうユーザーのニーズに一番応えるものは、「一定の内容の一定の量の経験を積ませること」ここにコミットすることだと思う。ユーザーの体験を理解することはできないから、”最低限”目に見える何かを”確実に保証”するのだ。

もう一つは、
自分がほしいものを作る。人は自分の主観から抜け出せないので、他人の主観を理解しようとすることは原理的に不可能だ。しかし、それを理解しようと努力はできる。しかし、それでも限界がある。自分の主観を理解することのほうが圧倒的に有利だ。だから、自分がほしいものを作れば、他の人も感動するようなサービスを作りやすい。他の人の立場になって二次的に考えていればリアルな体験は作れない。

という本が昔あった気がする。あったのか?わからない。でも褒める技術はこの世界において重要だ。人をのらせるためには、その人を気持ちよくさせなければならない。そのためには褒めることが必要だ。褒めるというと卑しいかんじがあるが、「よい気持ちにさせる」言動全般を指すと思えばいい。

どうやって褒めたら人はいい気持ちになるか?ただただイケメンですね、おもしろいですね、美しいですね、センスありますね、とか言われまくっても人は気持ちよくならない。われわれは独自の世界観を持ちながら一人一宇宙を生きている。人それぞれ「腑に落ちる」ことは異なる。それを踏まえて、相手に納得感のある褒めをしなければならない。

そのためには相手がどのような世界観を持っているのか、そしてどんな事実としての歴史をもっているのかを把握しなければならない。

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また、世の中はいかようにも理解可能だ。これをこころから理解している人は、大胆な行動が取れるのだろうな。頭でわかっているのと、本当に信じていることは違う。やはり言葉は軽い。行動、その人の生き方を見るのが本質に迫る方法だ。

基本的に現在の社会は同じ志向を共にするアソシエーションの集まりで成り立っている。学校、サークル、会社、組合、友達ネットワーク、あらゆるあなたを規定する所属体はある一定の目的を志向したアソシエーションだ。

このアソシエーションの中でも「明確な目標」のあるものを、プロジェクトと呼びたい。例えば、会社はプロジェクトだ。会社の株主価値を高めるとか、利益を長期的に出すというゲームのルールをみんなで共有して、プロジェクトを進める。これに属する人はみな会社ゲームの一員となり、ある善悪の価値観からなる明記されたルールおよび明文化されていない暗黙のルールにコミットすることになる。そうなれば、その善悪の価値観に基づいて、怒鳴られたり褒められたりするわけである。

しかし、もし、同じ価値観にコミットしていないのに「怒鳴られたり褒められたり」したら、それはナンセンスだ。怒ったり、賛えたりするのは、同じ価値観のフィールドにいることが前提である。弁護士が、マッサージ屋のおばちゃんに対して、法律知識がないことで怒ったりすることが無意味なのは当たり前だ。

今回言いたいことのは、コミットしている善悪の価値観が違う人を「愚痴ったり、けなしたり、怒ったり」することはナンセンスだということ。

善悪の価値観が違うとは、少し具体的にいえばどの共同体に所属しているかということだ。世の中にあふれる沢山の愚痴、批判や中傷、罵倒の多くは言っている本人と「異なる」価値体系に属する人に向けられたものがおおい。そうした言葉は彼らに届かない。じゃあどうすればいいか。直接的な害がないことは「無視」ということしかない。他人の自由を認めるとはそういうことだ。


youtubeの動画で30歳くらいの若かりし頃の哲学者東浩紀が、

近くの人間と言葉が通じないって状況分かりますか?まあそれが分からない人には言ってもしょうがない…

みたいなことを言っていて、まさに私はその意味がわからなかった。でも、最近、いろいろなバックグラウンドの人と接することでその感覚が分かってきた。これまでもいろいろな人には会ってきたと自負していたが、それは結局、日本で比較的意欲的に仕事をするようなそういう人たち、であり正直多様性はなかった。

でも、中国に来て本当にいろんな人に会う。「仕事」「お金」「働く」「人生」などいろいろな概念に直観する意味は各自違う。こっちの話の前提がまったく共有されていない人たちだ。

言葉が通じないとはどういうことか?

ある言葉の獲得状況が異なるのだ。

われわれはある対象に接したとき、ある意味がなんの推論も介さずに直接意識に生じる。「机」「パソコン」「猫」など様々な対象を目にしたとき瞬時にそれが何かを認識する。この意味の直観をフッサールは「本質直観」という。

この直観された意味は他者と共通了解しえる一般性があある。本質直観には他者との関係性が織り込まれている。なぜなら他者とのコミュニケーションの中で獲得した知識が身体化されているからだ。逆にいうと、他者と十分に状況を共有しながら概念を獲得していないと、その言葉に意味を十分に感じることができなくなる。

現代では多様な生き方が可能だ。人はそれぞれ接するメディアも情報も違う。会う人も違う。同じ言葉を使っているようでもその血肉化のされ方が違えば意味は異なる。

参考:山竹「本質直観とは何か??」

立花隆『エコロジー的思考のすすめ』には人間社会において決定的に重要な価値体系について本質的な説明がある。まずは引用する。206ページから。




複雑な人間の順位制
人間社会の順位制は、動物社会の中ではいちばん複雑な仕組みになっている。
人間は自意識過剰の動物で、いずれ劣らぬ肥大した自尊心をかかえている。したがっ
て、集団の秩序を維持するために最も有効な方法は、その自尊心を厳密な順位づけの下
に圧しつぶしていまうことではなく、複雑怪奇であいまいな順位制の中で、なるべく多くの自尊心を満足させてやることなのである。
動物はすべて腕力一本で順位づけをしてしまうが、人間は順位づけの種目をやたらと多くする。個人の意識の中では、しばしばその種目は非公認のものにまで拡大され、その結果、どんな人がどんな人と自分を比べても、この点にかけては自分が上だという種目を持つことができるようになっている。
種目が多すぎるので、こんどはその種目の順序づけが問題になってくる。財力と知力ではどちらが上位か、感情の豊かさと統率力ではどうか、着るもののセンスと味覚のセンスではどうか、といった具合いである。種目間の順序づけが、それぞれの人の価値体系を作る。人びとの間で、価値体系に関して常に議論が割れるのも当然である。
ともかく、こうして人びとはそれぞれ別の価値体系の中で、勝手な順序づけを楽しみ、それに加えて、適当ななわばりを自分の周囲に作って、自尊心を満足させて平和な暮しを楽しむことができるわけである。
人間社会における順位制で、かなり普遍性のある種目は、所属組織における権力順位と、収入の高による財力順位である。この二種目で下位になったものは、自尊心を満足できず、コンプレックスを持ちやすい。
コンプレックスをのがれる手段は二つしかない。 一つは死にもの狂いで、その順位戦に勝って上位にのぼること。もう一つは、この二種目が下位になるような価値体系を独自に(あるいは仲間と共同で)作ってそれを信奉し、二種目にこだわる人をバカにすることである。どちらかといえば、後者のほうが楽でいいだろう。

簡単に要約するとこうだ。

  1. 人間社会は、誰もが持つ強力な自らの自尊心を満たすため、複雑な順位制を持っている。どんんな人でも「ある種目においてはおれが一番だ」と思えるようになっている。
  2. しかし、その種目の順序づけが重要になる。種目間の順序づけが、それぞれの人の価値観といえる。人びとの間で、価値観=体系に関して常に議論が割れる。
  3. 人間社会における価値体系の順位づけで支配的なのは、権力と財力。この二種目で下位になったものは、自尊心を満足できず、コンプレックスを持ちやすい。
  4. それを克服するには手段は二つしかない。 一つは死にもの狂いで、その順位戦に勝って上位にのぼること。もう一つは、この二種目が下位になるような価値体系を独自に作ってそれを信奉し、二種目にこだわる人をバカにすること。 
私はやはりこの中でも「お金」つまり財力が最も普遍に重要だとみなされる種目だと思う。それは数字という一義的で誰でも分かる指標があるからだ。これによって多くの人がコンプレックスを持つことになる。本心では自分のやっていることがもっとも価値があると思っていても(例えば、昆虫研究など)それが誰もが納得しやすい財力という種目のゲームではぜんぜん上へいけない。それでもそうした自分の道を進めるほどなにかに熱中できる人はいいが、普通はそうはいかない。

その難題は未だ解決されていない。

ICOなどに代表されるブロックチェーンにはこれを解決できる可能性がある、と私は思う。

いろいろな価値体系の経済圏を作ればいい。今、「お金」は、ドル、円、人民元、ユーロなどいろいろな通貨があるにせよ、グローバルで一義的な価値基準だ。とってもとーっても強力な価値基準。ドルの経済圏も円の経済圏も、たしかに価値体系は異なるが、現代のように簡単にいくらでも両替できる社会ではそれは一つの「お金」という価値体系としてまとめられる。

ICOなどトークンで、いろいろな価値体系の経済圏ができれば、全部を包括するような価値体系はなく、いろいろな価値体系が共存し、さらにいくつかの経済圏にまたがって生きることで誰もが自尊心を満足させることができる。

自分の周りの見えていることにコミットしたほうがいい。分からないことと、臨場感を持って理解できること、そこに区切りをつけることで道が開ける。なぜなら、広い範囲を見ようとするときりがない。地球の裏側ではいろんな問題やニーズがあるだろうし、国内でも自分が知らない問題などが沢山あることすら知らない。熱くなれるものをみんな探しがちだが、熱くなれること、つまりコミットできることとは、十分に理解できることである必要がある。そして、そういうものは自分が直接経験できること範囲なのだ。あまり、遠くに行こうとせずに、こうした原理を自覚して、自分の周りを意識しよう。

やりたいことだけやって生きることが推奨されるが、やりたいことなどない、という問題もよく見られる。

私もやりたいことをやるのがいい、というのは分かっていたし、もともと金のない生活でも問題のない性分なので、より「やりたいことだけ生きる」ということに関心をもっていた。もちろん好きなことは沢山あったが、でも、本当にそれだけやっていれば最高、と思えるようなものはなかった。

どうやったらやりたいことがみつかるのか。
やりたいことってなに。

やっていて楽しいこと、自分からやってしまうことは確かにある。しかし、そういうことも続けているとやっぱり問題はおこるわけだ。飽きもくる。だったら、そこで、それはやりたいことではなくなっているわけだから、違うことをやるのが正解になる。また見つけたやりたいことも同じようにすぐ問題に突き当たり終わる。これでは、やりたいことをやって生きることにはいつまでたっても到達できない。

われわれの心、というか意識状態はそもそもそんな構造をしていない。つまり、何か中に一つの(例えば、ナンバーワンテニス選手になる!のような)ベクトルを備えているわけではない。

しかし、

ふと思ったのだが、そういうものが自分にもある。たしかに、常に飯や女のことなども忘れるくらいに取り組んでしまうことが、たしかにあるのだ。

それは、実存について考えること、この被投的に始まっている生について、それにどう対処する、付き合っていくのがいいのだろうか、ということを考えることが好きだ。たしかにこれまでこのブログを10年以上もやっているが、その内容のほとんどが、実存の構造についてのもんだ。

なぜ、それに今まで自覚がなかったのだろうか。おそらく、それを直視できなかったのだろう。

これについて、その理由を考えると、2つある。
  1. 生の構造がどうなっているのか、と考えることが、一つの(趣味になるような)アクティビティであるということが斬新すぎる。そういう人はほとんどいない
  2. 生について考えるというような哲学は、何かに悩んでいるようなネガティブなイメージがある

一般的には、実存の構造を考えるとか、そこから派生する「どう生きるべきか」「この存在とは何か」などは答えのない問題であり、そんなことより今を楽しもう、とかいうような主張に打ち砕かれてしまう。自分もそういう風に考えることもあるが、やはりこの問いはおもしろいのは事実だ。自分がそれを楽しめるのであれば、誰がどういおうと関係ない。私は以後、自分の趣味やルーティンにしていることを「実存の最適化」について考えること、といおうと思う。

自分は毎日必ず1杯はスタバでコーヒーを飲むが、スタバのビジネスにとってはよい客だ。1杯は30元(510円)だから、1ヶ月で15,300円、1年で186,150円。死ぬまでに30年分くらいこれを続ければ5,584,500円。つまり、LTVは560万円くらいだ。

スタバは多くの人の生活に深く入っている。だから、長期的で安定したビジネスができる、みたいなことは言うつもりはない。こういう業界だと成功しやすいとかもいうつもりはない。

では何をいおうと思ったのだろうか。忘れてしまった。

まあ、でもこういう生活に(必要不可欠ではないが)密着した経験の提供の需要は社会の変動にかかわらずずっとある。私達の世代の後もその後も。だから市場の需要が飽和するみたいなことはない。それはいいことだ。

語学はどうだろうか。違う言葉が国や地域ごとに使われ、それらの交流がある限り必要なものであろう。どんどんと独学や無料で学べるインフラが整いつつあるが、それでもニーズはある。

まあ、なんか結局ビジネス的観点での話になってしまったな。こういう考え方はなるべくしたくないものだ。

たまにいい会社名はないかなと考えることがある。

ふと、株式会社ゲシュタルト、っていいなと思った。

ということはどうでもいいのだが、
さて、われわれ人間は、ソシュールの言葉で「ランガージュ」というシンボル化能力を持っている。つまり、ゲシュタルトを形成する力だ。同じようなパターンを何回もみると、その周りの環境のパターンと総合して、何かその本質のようなものを掴み、概念として獲得する。

それを一つの絶対値として把捉するのではなく、あくまでも他との関係との中でそれと特定できるような特質である。だから、言語は差異の体系だと言われる。

そう考えると、「楽しさ」「幸せ」という言葉が認識できるのは、その概念を取り囲むその他概念との差異が必要となる。つまりそれは、「苦しい」「つまらない」「孤独」などなどの語との違いから浮き彫りになる。そしてその背景には、明確な目標のもとに官僚的組織のもと体育会的な指導のもとビシバシ働くという経済構造が社会の軸にあった。しかし、物欲が満たされ意味の消費も飽和状態になってきた現代において、このような所謂大きな物語はなくなり、こうした「楽しさ」「幸せ」という概念を浮かび上がらせる土台が消えてしまった。

(こういった言語観の背景について、ソシュール的ではないが、山竹「本質直観とは何か??」が言語の本質をうまく説明している。本質直観(意味のリアリティを持った理解)が有効に働くには十分な経験、特に他者との調和した共有が重要だと言われている。もしある概念にリアリティを感じなければ、その概念を他者と共有した経験に乏しいということなのだ。)

実現されたとは言えないものの、アメリカ的な「自由」の概念が広く世界で理解され、多くの人が社会や政治の制度などにとらわれず生きたいように生きるのが良いということを知っている。そういう社会ではそもそも「つまらない」「めんどう」や先の概念等はない。もちろん、今でも仕事がどんどん降ってくる世界で生きていれば、その辛さとの裏腹に、「楽しく、幸せな」家族や友達との時間が輝く。

しかし、今では仕事自体を労働としてではなく、自分のストーリーとしてやることが既に「よし」とされるような社会なので、「苦しい」との差異で位置づけられた「楽しい」や「幸せ」という概念ではこれを表現できない。もしこうした自分の好きなような生きているような状態の心の状態を表すのであれば、それは「自由」かもしれないし、新しい概念が必要なのかもしれない。

過去には社会全体が「楽しい」や「幸せ」を目指す言語観(つまり世界をどう見るかなので世界観)が社会で共有されていたが、今はそうではない。無理にこうした概念を目掛けて生きることはリアリティを感じられないもの(ゲシュタルト化していないもの)を追い求めていて原理的に掴めないもの(幻想)を追求することになる。こうした指摘に共感を示す人は、まずは自分の世界観(言語観)を見直すところから始めるべきであろう。



東浩紀がyoutubeの動画で「哲学者とは普段合わない者同士のコミュニケーションを生じさせる」みたいなことを言っていたのを覚えている。哲学とは深く考えて、普遍的な原理を取り出すことを追い求めているのだから、たしかにこの定義はしっくりくる。そして、自分が哲学を勉強したのもたしかにそういう目的に向かっていたかもしれないと考えている。いろいろな人に普遍的に「よい」と思われる何かを作りたいという軸は物心がついたときから変わってない。世の中にはたくさん才能ある人がいる。一言でいうと、すごい!と思う人は沢山いる。しかし、彼らは自分周辺のコード内で凝り固まった存在だ。私はそういうのにあまりいい印象を持たない。この世界という場を共有している以上、普遍的な「よい」を目掛けたいのだ。そのためにいろいろな背景の人々とコミュニケーションをし、普遍的なものに近づきたい。行動が重要なので、哲学者という学者的な呼び方ではなく、哲学家とでもいえるだろうか。よくわからないけど。

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