記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

1,それ意味ありますか。

とか、

2,生きる意味

などで使われる「意味」の定義が曖昧なので、これらを難問化させている。

1について言えば、これは「充実した意味」というニュアンスが強く、言い換えれば「意義があるか」、つまり「何か当事者にメリットがあるか」のような形で使われている。

また、2については、「目的」として「意味」が使われていると思う。

しかし、「意味」というものの本質、つまり、もっとも中心的なポイントを理解すればこうした誤解に惑わされない。

「意味」というのは、われわれが生きるということそのものを表す。何かに意味を見出しているということが、生きているということなのだ。

変な音を聞いて「意味不明な音だ」と感じたことが「意味」の発生なのだ。
なにかに気づく、知覚するということとも似ているが、意味というのは「〜として」何かしらの了解があるということ。

このように「意味」を理解すればいろんな「意味」を使った難問が解ける。

ユニクロ柳井さんの有名なイカの本を読んだ。
中国でのプレゼンスを現地で見ていた自分からすると、柳井さんの経営の実力にはかなりのリアリティがある。実際読んでみていくつか響く点があったのでメモしておく。




以下、後ろにページ数があるのは引用。それ以外は私のコメント。

  • 基準を高く持ち、妥協とあきらめをしないで追求する 36

なぜか?

  • お客様は厳しいからです 36

結局、一番大事なのは、お客さんがお金を払うシーンだ。自分に置き換えてみてみれば簡単だ。何かを購入するとは、自分の資産であるお金の減少を意味する。その代償を以って手に入れたいものとはどんなものか。中途半端なものにお金を払うことはしない。

  • 自分に力をつけて本物の情報が入るようにする 60
  • 世の中、本当の情報を持っていたり、本当に優れた人というのは、それぞれの業界で数えるほどしかいないと思っています 60
  • ですから、いかにそういう人たちに早く行き当たるかといったことを考えて仕事をしないといけません。そして、そのときに最も重要なことは、そういう人たちに行き当たった時に、しっかりと対話ができる力を自分が身につけておかなくてはいけないということです。60
  • 相手に与えられるものとか、相手が反対に自分に聞けるようなものを、自分にいかに蓄積するか、といったことがないといけないということです。60
人脈の多い人は声のでかい人は多々おり、ついついそういう人たちに甘えたくなるが、真の実力者は少ない。自分がそういう人間になるべきだ。どうすればそうなれるかというと、方向性を決め、現実から経験を蓄積するのだ。

  • 商売の原点。それはお客様のためにです。66
  • 商売に関するありとあらゆることを、これに徹するという意味です。66

これは本当にそうでしょうね。最初のとかぶるけど。ステークホルダーはいろいろいるが、一番はやはりお客様。そして、お客様の意識体験だ。意識ファーストであるべきだ。むしろそれを創るのが楽しみで事業やりたいのだ。私は。
  • ファーストリテイリングの使命
  • 本当に良い服、今までにない新しい価値を持つ服を創造し、世界中のあらゆる人々に、良い服を着る喜び、幸せ、満足を提供します 149
私の場合なんだろうか。いつもと異なる楽しい体験を創りたいと思う。毎日同じ、先が見通せている経験って面白くない。もっと偶有的な体験を楽しんだほうがいい。というよりもそういうものが楽しいのだ。

落合陽一さんが何かのメディアで「共感されないことを前提で話す」ことに日本人は慣れていないといっていたが、全くそのとおりだ。

これって、要するに他者の「自由」を認めないというような根本的な社会思想と密接に関わっている。

日本は中産階級が多く、誰でも同じような価値観や世界観を持っていると多くの人が信じている。たしかに、お掃除のおばちゃんでもスタバに行くし、スタバの話が通じる。中国にいた頃、お掃除のおばちゃんやブルーカラーの人に「スタバはどこにあるか」とか聞いても、「スタバ」自体を知らなかった(発音の問題はなかった)。

そういう意味で、以心伝心でコミュニケーションコストが低そうにみえるのが日本の特徴。様々な宗教や人種のいるアメリカや地方で文化や方言が違い、貧富の差が激しい中国など多様な人々がいる場合、かなり最大公約数で人間レベルでの共通概念で理路整然と話さないと理解されにくい。

こういう社会だと、「自由」の理念はさておき、人々のエートスに「自由」が根付く。つまり、おれはおれの好きなようにいきるから、お前も好きにしろ、おれは構わない。というスタンス。中国に行くと、人々が他人に無関心なのがよくわかる。なぜなら、そもそも簡単には話通じないだろう、という前提があるからわかろうとしないのだ。だから興味もなくなる。

日本は逆でわかって当たり前だし、共通の前提があるという前提だから、がんがん人に介入していく。

どちらも一長一短はあるが、やはり人間社会の最高価値は「自由」だとすると、その理念が身体化されているアメリカや中国のように「共感されない前提」のほうがいいと思う。

まずは、今回亡くなられた方々に哀悼の意を表します。また、負傷者の方々、京アニの関係者の方々、そのまた関係者の方々が心身ともによい状態になることを願うばかりです。

私自身アニメに関する仕事をしていたので今回の事件や社会的な影響の大きさは理解できる。ただ、本質はそこではない。多くのそれぞれが主役の物語を持つ実存の主体が亡くなった。一人ひとりの生は比べようのないものだ。何人死んだかは二の次。

さて、この事件からわれわれは何をすべきか。お悔やみ申し上げたり、ご冥福を祈るだけでいいのだろうか。

誰かがツイッターで、「こういうサイコパスには対策のしようがない」と呟いていたが果たしてそうだろうか。サイコパスで片付けていいのだろうか。私はやはりこの日本の社会ひいてはグローバル資本主義の社会が生み出したものだと思う。始めから私はこのスタンスで見ていたので一般の人に比べれば冷静だっただろう。

現在では、前科、服役の過去がある41歳。「ころすぞ」と怒鳴り近隣とトラブルを起こしていたなどの情報くらいしかない。1978年生まれくらいか。私より8個上。

私自身、たいして余裕のある生活はしていないが、かなり恵まれた環境で育ったという認識がある。だから、こういう恵まれた環境がない場合、あるいは逆効果の劣悪な環境で育った場合、今のように比較的倫理的な生き方をできるかどうかわからない。
むしろ、自分が何か失敗したり、実力不足を感じる場合、それでもめげずに進んでいけるのは、過去の学歴や仕事、友達関係などの存在がそれらを支えていると思う。これらがなければ、自己評価は下がり倫理的な、というか社会に適合した振る舞いなどできないかもしれない。

見田宗介氏が以前、「眼差しの不在」の地獄として次のような議論をしていた。

2008年の秋葉原通り魔事件の加藤智大の動機は、誰求めてくれなかったから、しょうがないから突っ込んだ、という誰も相手にしてくれなかった、ということ。それに対して、40年前の似たような永山則夫連続射殺事件は、一見似ているが、その動機は逆で青森から東京へ出てきたが、学歴とか顔に傷があるとか訛りがあるとかそういう表面的なことで人から反発を受け、アメリカに希望を見出す。

密航しようとして、みつかったりして強引に突き進んでいるうちに殺人をしてしまった。これは逆に人々の眼差しが強すぎた。40年前の日本はよくも悪くも空気の濃い時代であり、むしろ人々がお互いを見る目が濃すぎた。それに対して今は空気が薄すぎる時代である。

今回の犯行、いやそれに限らず、先日の川崎殺傷事件など含め無差別的な殺傷事件、さらにはその他の殺人事件等、人の命を奪うという行為を取ったものの動機は共通のものがあるのではないか。正直、今回の歴史的な規模の事件を説明することはできないが、殺人一般の共通性については言えると思う。

つまりそれは、生活が困窮し、身体的に追い込まれたというよりも、誰も気にかけてくれない「眼差しの不在」が原因なのではないか。社会的に「善い」とされるものを何一つ持たず長らく生きていれば自己評価が下がり、行きづらくなるのは当たり前だ。そして他人とのコミュニケーションをさけ、悪のスパイラルにハマっていく。

誰か一人でもいいから、そばでその存在を受け入れてくれる存在が大切だと思う。それはこんな極端な事件レベルでなくても、資産家や社会的な地位のあるものでも同じだ。人は他者の目から自分を認識している。他者の眼差しがなければこの<世界>に意味がなくなっていくだろう。

ドイツでは教授が価値観の出発点といえるかも、という仮説。

ドイツでは「教授」になると何を教えるかや学生をどう扱うかについてかなり自由らしい。教授が何をやってもいいということは一つの成熟した考え方なのかもしれない。われわれの世界は、何が良く何が悪いのかについて絶対的な尺度はない。

シラバス的な授業で良し悪しをはっきりして、目標までの道筋を着実に進めていくのは決まった知識を詰め込むような司法試験や会計士の学校とか、そういうのであればいいが、より高度な、そうした知識を使ってさて何をするかを考えるようなレベルになると、シラバス的な授業設計は無理がある。規定できてしまうことは価値がない。

では、このような高度な学びをどう展開するか。どうやって言語的に規定できないことを前提に、評価軸を作っていくのか。それは、あるプロセスを経て、あるポジションについた者を「評価軸」にするのだ。そのポジションについた者には、自由に決めさせる、ということ。

いろいろな難しい関門を乗り越えた者であれば、この社会を任せられる、というのだろう。大学の先生は、研究、教授、大学行政など様々な仕事がある。それらをニーズ的な目線で評価しないでほしい。こういうところに、何も考えずに自動機械のようになんでも決定する頽落状態を乗り越える可能性がある。

そんなこと言うもんじゃありません

と、みなさん、よくお母さんなどから言われたことがあるのではないだろうか。

例えば、「別にあの人のことなんてどうでもいいじゃん」とか。

昔はむしろ、できるだけ本音を口に出せば出すほど自分に嘘をつかないでいい、と思っていたが、人間そういうものではないということに最近また思ってきた。
「また」というのは、よく考えたら数年前にも何度かこのことについて書いたことがあるから。阿頼耶識にはすべての行為が書き込まれるから、言葉には気をつけよう、というものだ。

また、そう考えるようになったのは、やはり好感を持てる人は、こういう言葉が自分の物語を形作るということを意識しているな、と感じるからだ。
安易に発言をせず、しっかりと自分の価値観に基づいて行為していきたい。そして、発言と同様に不作為も作為であることも気をつけたい。

自分が見ている世界を全てだと思って、その中で自由に楽しく生きていればいい。そう考える人は多いだろう。つまり、その狭い世界の外(真実)なんかどうでもいい、という態度。本当のことがわかっても、だからどうなんだ!っていっちゃうやつ。真実なんてどうでもよくて自分たちが自分たちの見ている世界がよければそれでいい。

しかし、このような主観的な世界重視の生き方の何が悪いのか。

言い換えれば、何が真実かを追い求めることのの何が問題なのか?世の中には、もうこういうことで処理しといたほうがいい、という側面があるものもあるが、それでも真実にこだわる理由は何か?メリットはあるのか?

このような問いに宮台真司氏がビデオニュース・ドットコムのイベント(この動画(27:00から))で簡潔に述べた理由は、

「システムはどのみち回らなくなるから」

というもの。われわれが行きている世界はシステムにより間接化されていて、直接的なものではない。このボタンを押せば、これが出てくるというような無数の仕組みで成り立っている。お金が価値の交換手段として成立していたり、毎月会社からお金が振り込まれたりするのも、われわれが習慣として動いているからにすぎず、絶対的なものではない。われわれは、システムに依存している。

世界がそもそもどうなっているか分からない人は路頭に迷って死ぬ。そのような習慣に疑問を持ち、習慣が解かれてしまえば、どうなるかわからない。

グローバル化を背景にこれまでの前提が崩れ、日本を例にすれば、中流階級から落ちてぎりぎりの水準でいきる人も増えるだろう。いままで当たり前だった自動販売機的なルーティンが崩れると、人間関係や生活スタイルあらゆるものがリセットされ、新たな世界に適応しなくてはいけなくなる。これまで、システムに依存してきたつけを払うことになる。普通に人が人を殺すかもしれない。

そもそも、われわれは、世界がどうなっているかわからない。しかし、それでも疑問をクリアにし続けてぎりぎりまで分からないラインを詰めていく。こうした作業が必要だ。だから、世界はそもそもどうなっているかの探究が必要、というわけだ。ここまでが宮台氏の意見。

これにみな納得するだろうか?


しかし、これだといかにも功利主義的な発想で、「死ぬのを回避するために真実を追求しろ」となってしまい、ヒッピー的な人間から、「そんな心配する、いつ死ぬか分からないから、楽しい世界を今享受して生きればいい」とカウンターをくらうだろう。実際、そこまでラジカルにシステムが変わった経験は今の若者にはない。だから、コクーンの中で自分の周りだけよければそれでいい、という発想もわかる。理論的には。

さらに、しかし。私はそうは思わない。もっと実存的(主観的)に考えると、やはり、真実を知ること、外の世界を知ることは重要だ。なぜなら、人はだれでも、自分の思っていた世界の外があることを痛感する経験を持っている。自分が優秀だと思っていたら、もっと上が沢山いたということ、仕事をしだしたら全然成果が出ない、結婚して幸せだと思ったら、問題が色々出てくる、等々。それゆえ、実際問題、誰もこうした真実の追求、今の状態が続かないかもしれないから、もっと原理的な構造を理解しようとすること、を逃れられない。どんな人だってそういう営みをしているはずだ。

逆に、冒頭で述べた「今が楽しければいい」という生き方は、そうした意識内にある過去の経験に基づいたリアルな不安に”蓋”をしているに過ぎない。”蓋”の下からくさいものが常に自分を悩ませる。日々色々な経験を避けられないわれわれは、必ず外の世界に触れてしまう。だから、完全にそれを密閉することはできない。

だとしたら、もう生き方は一つしかない。真実を求めて生きるのだ。言い訳をせずにこの世界全体がどうなっているかについての探究を諦めず続ける。世界全体に責任を持つのだ。持つとういうより、これからの不測の事態に対して覚悟する、といえる。

自分が30歳で学校に戻り哲学をやった理由について昔いろいろ書いたが、今の時点であらためてあえて一つに絞っていうと、われわれの人間存在がどういう自動機械なのかを知ろうと想ったのだ。この存在(つまり、意識体験)は、どういう仕組で動いているのかを知り、その上で以後この存在と付き合っていきたいと思ったのである。(私はそれを丸山圭三郎の言語観と、岸田秀の唯幻論からある一定の結論に至った)

われわれの言語がただの決めごとであり、幻想的なものに過ぎないことは現代においては多くの人が理解している。しかし、一般的にはみんなそのことを自覚していない。僕らはただただ、習慣的に決まりごとを作りながら社会を発展させている。法律や規則などだけでなく、僕らが前提的に使っている言語だって、習慣的なものに過ぎない。その言語によってあらゆるものを説明しつくすことなどできない。

われわれの存在(つまり、意識体験の「いま、ここ」)は、2つの領域に分けることができる。言語により説明する領域と、言語化できない領域だ。われわれは前者が当たり前に世界を説明し尽くすものだと思っているが、われわれにとっての最重要なのは後者の部分だ。われわれが求める真理、それは原理的にはたどり着けない物自体なのであるが、それはわれわれの確信構造の中では、言語化できない直接体験のほうにある。

人はおうおうにして言語により世界を説明しつしているという前提の中を動いている。いわゆるハイデガーでいう頽落状態である。僕は逆に常に真理がある側に立っているから普通の人と話が噛み合わないのはあたりまえだ。人はもちろん、真理を自覚的に考える必要はない。しかし、話していると、その今の社会や世界が作られた幻想であり、その当たり前ははかないものだと認識していて、その向こう側へのまなざしがあるかないかは話していいてわかる。

このまなざしがない人を社会学者の宮台真司氏が「世界がどうなっているのかから力を得ないものはだめ」と一喝していていたが私も同感だ。宮台氏はその理由を、システムはどのみち回らなくなるからと述べていたが、私はもっと実存的な理由でそう思う。前者の世界に留まっていると、この複雑かつ色とりどり豊かな世界を窮屈にしすぎてしまうのだ。つまり、私にとって面白くないのだ。そして、自分のよい状態をもとめるのであれば、根源的な真理側の世界で活動しないとその可能性がみつかる見込みはない。

ツイッターである人が「人に会うことが重要」と述べていた。これ、多くの人が言うことだし、私も同意するが、もっと踏み込んで「なぜか」について、考えてみたい。

端的に答えると、
・人間は、言語の世界を生きる存在である
・言語の世界に踏み入るためには人との交流が必要
・この世界にステイするには人との交流が重要

ということだと思う。

人間は、人を沢山目にし、さらに交流することで「人」という概念を獲得し、さらに自分もそのうちの「一人」だと理解し、物語の世界へ足を踏み入れていく。
自分のこのような主観的な体験をほかの「人」も経験していて、その中に「自分」自身も「一人」としてみる。こういう世界に生きる一人の人間として自分をみなすことで、世界の経験が開けていく。

だから、人との交流がなくなると、客観的に自分を見る必要がなくなり、言語の世界をもたない動物のようになってしまう。

それに対して、どういう態度を採るのか?それはあなた次第だ。

どっちがいいとか悪いとかの問題ではない。

石原さとみの彼氏ということで一躍有名になったショールームの前田さんは、自己分析を徹底してやったことが今の自分にとって重要だったと何かで述べていた。

これってとても大事なこと。

実は釈迦が悟ったのと同じこと。

自分を定義できることは世界を定義できたことと同じなのだ。

もちろん、完全な定義はできないが、ある程度まで行くとそうとうな納得感に到達できるのだろう。自分の強みや弱み、なぜそうなっているのか、それをいろいろな知識を動員して説明しきる。何か例外があったらもっと大きなストーリーで考える。自分を自動機械のように捉えて、どうしたらどうなるのかを把握するのだ。

ドライなイメージを持つかもしれないが、よく生きたいならこういう営みって大事だよなぁ。

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