記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

意識の流れを最もポジティブにするにはどうすればいいか?

まず、前提としてわれわれは空間時間的な意識体験を、時間の経過とともに体験する。これを意識の流れと呼ぶ。

自分の生き方にしろ、社会を作る上での理念にしても、最も突き詰めた根拠となるべきはこの「意識の流れ」だ。こういう表現をすることで、一般的に議論の出発点となる最高価値「幸福」よりももっと広いところに目を向けることができる。

われわれの意識の流れは欲望を中心に動く。

そしてその欲望はどういう原理で動くか?

人間は、生まれてから言語の世界に入っていく。一定の刺激を受けると、パターン認識が積み重なり世界内存在となる。そのときに最初の自分の言語的な認識の世界、つまり物語ができる。そのときの物語とは、母親がなんでも満たしてくれる全知全能である。どんな人間も基本的にこの全知全能の物語が最初になる。

その後、さまざまな共同体の成員となり、いろいろな物語を他者からの理解をかぶされ、上書きされていく。しかし、やはり根本は全知全能なのであらゆる問題がすぐに解決されることを望む。

今後もし、AIなど技術の進歩により人間が働く必要がなくなり、自分の好きな情報だけ見て生きられるようになれば、欲望はどんどん消えていくだろう。

いろいろな背景の異なる人間と会うことで、これまでの物語との整合が必要になり、また乱れていく。

多様性はなくなり一つの価値観にまとまるのか?

そうはならないだろう。生物的には、多様性が保たれていた方が外部環境の変化に強いからだ。

では、どうすればいいかというと、意味の溢れる意識状態を作ればいい。

これについては以前もかいた。

われわれの意識体験におけるあらゆる認識は、物語相関的である。

テーブルの上にコップがあるとする。

喉が渇いている人にとって、これは「喉を潤すもの」だ。一方で、激しく喧嘩している男にとっては、「相手に投げつける固いもの」である。各自の物語に相関して対象が認識されるのであり、世界には、こうした各自の物語を離れた「客観的」なるコップは存在しない。

いわゆる「客観的」と言われるものは、そのような物語相関の認識において大多数の人が共通の意味として認識する意味である。例えば、コップであればたとえ違う物語を生きる人々にとっても、大多数の人にとっては「飲料を飲むもの」だ。

さて、資本主義社会において、多くの人が日々ビジネスチャンスを狙い、そこには裁定が働き簡単に儲かるようなチャンスはない。なぜなら、多くの人が同じような物語で世界や社会を眺めているからだ。同じような、というのは大体同じような時間軸で同じような世界の範囲をベースに考えているということだ。

例えば、スタバの日本進出の際、多くの人はスタバの事業を「おいしいコーヒーを提供する場所」と考えるだろう。だから、直営店方式で展開したそのやり方に疑問を感じ、一般的なカフェチェーンは手っ取り早いチェーン展開をする。

しかし、スタバは自分たちの提供しているものを「サードプレイス」、つまり家でもオフィスでもないゆっくりできる場所の提供という物語を持っていた。だから果敢に、店内の世界観を保つために直営店というリスクを伴うやり方を取ったのだ。

時間軸を変える、範囲を広げる、提供しているサービスの価値を自分で定義するなど、普通の人と違った物語で世界を見ると、実はビジネスチャンスに溢れている。あとは、それを少数の仲間にシェアをして実行すればよい。

やはり人間の生において、何かに熱中するということほどよい生き方はない。なぜかといえば、それは人間存在の本質が「意味」の連続であり、その「意味」の濃度は、如何に確固とした物語を生きているかに依拠するからだ。

では、どうすれば何かに熱中できるか。それは「やりたいこと」問題にも繋がる。つまり、「やりたいこと」がない、あってもすぐ飽きてしまう、という問題だ。

この問題に対して、『メモの魔力』の著者である前田裕二氏が答えを出しており、私もかなり哲学的に考察した上で同意する。その2つは、

1.徹底した自己分析で、どういうとき辛かったとっか、どういうときに嬉しかったとかを掘ると自分がどういう自動機械か分かる。なんで大学受験が辛かったのか、努力が報われなかったのか、周りが馬鹿にしたからか、など掘り下げる。周りが褒めてくれるのが嬉しかった、等。

2.とにかくいろいろな体験をする。出会ったことないものを好きだということはない。クリケットはやったことないから好きだと思わない。とにかく何も考えずにいろいろなものに出会え。

また、幻冬舎の箕輪氏はこれにさらに以下を付け加えている。

3.ちょっとおもしろいと思ったことは思い切ってやれ。死に物狂いでやらないとだめなんだ。つまらなくなる。

私はこれにさらに2つ付け加えたい。

4.若干2と被るが、ロールモデルを探せ!ということ。これは実際探してみつかるものではないが、すごい!と心から身震いするほど尊敬するような人間に感染すると論理などすっとばしてモチベーションが湧いてくる。

5.これは「やりたいこと」探しで迷っている人に多い傾向かもしれないが、あまり別次元のことを期待しないということ。つまり、これからの生は「これまで生きてきた経験の延長線上」ということだ。これまでに例えば種別1から10のタイプの楽しみを経験したことがあれば、これからはそのそれぞれのタイプでの程度の高い楽しみは期待してよいが、タイプ11や12など新たなものがあるとは限らない。この問題は年を取れば取るほどなくなると思うが、いつまでたってもなくならない可能性もある。

以上、みなさん、まだやりたいことを探している場合はこれらをお試しください。

「幸福」「正義」「愛」「善」など社会を作るためは、これらの理念について共通了解が必要だ。しかし、現代においては情報化社会やコミュニケーション手段の発達、さらに移動の簡略化により価値観が多様し、共通了解を築くのが難しくなっている。方法論から言えば、たしかに現象学的な方法で共通了解を見出す可能性はある。決められたルールにしたがい哲学のテーブルにつかせて、自分の主張を確信として、その確信成立の構造を取り出すというもの。しかし、実際問題、そのテーブルにみんなを、或いは必要な参加者をつかせるのが難しい。このゲームをスタートさせることができないのだ。むしろそこにみんな既に苦心しているのだ。論理的にはわかっている。このほうほうがいいのは科学の時代からわかっている。しかし、どうやったらみんなをテーブルにつかせることができるか。



33歳時点での人生哲学をまとめよう。人間、生きているうちのできるだけ早くに自分の考え方の軸を持ちたいものだ。いろいろな経験をする中で、ぶれないで安定して生きていきたいからだ。また、複雑で激動の時代、後ろの世代への助言としても少しでも貢献できればと思う。

私の場合、「生の見取り図」というキーワードで語っていきたい。つまり、私の問題意識は、「いま、ここ」というわれわれの存在の構造を把握したい、ということ。

「意識の流れ」「人間存在」ともいえるので、この現在進行中のこれを指す言葉の選択は難しいが、一般的な主観的な生ということで、「生」としよう。つまり、人間は、世界が素粒子で成り立ち、ビッグバンから始まったというような客観的な知識は二の次で、日々泣き笑い、怒り、喜び、悲しむという主観的な生をいきている。

この生はどのような構造を持っているのか。

ここでは、人生の「意味」問題の解決もなされる。人生に意味はあるのかと悩んでいる、或いは、そう考えてしまうと何かに真面目に取り組む気がなくなってしまう。そういう人たちへの処方箋でもある。

誰もが多かれ少なかれかれ行き当たるだろう「人生の意味問題」であるが、次のような人は3パターンの人間は、人生の意味問題に惑わされることはない。
  1. 衣食住が安定していない人→衣食住ゲームに熱中せざるを得ない
  2. 生活水準を高めるゲームに熱中している人
  3. 人間としての物語的なゲームに疑問を持たず熱中できる人
逆にいうと、この3つになれば人生の意味問題はない。

これについては、以前詳しくこのブログでまとめたことがあるので、結論だけ書きたい。

人生の意味は何か?という質問に対して、それは「〜のため」のように答えることはできない。宗教はそのように答えることができるが、それでは根本的な問題は残されたままだ。

もっと論理的に、合理的に考えてみると、そもそも「意味」の連続が生である、という結論になる。これはハイデガーという哲学者が自分の意識状態の構造を徹底して分析して取り出したものだ。われわれは何かを「意味」としてしか理解できない。眼の前のコップは、スタパの机の上にある私がいつでも手を伸ばせばとれるコップであり、なんの文脈もない、つまり意味のないコップなどない。

ゲームを遊ぶ
生は意味の連続だということがわかれば、あとはその意味の世界というゲームでどう遊ぶかが問題になる。よい意味の典型である「幸せ」を求めるゲームを楽しむ等。

ゲームのリアリティを高める
しかし、多くの人はゲームにコミットできない。それはゲームに対するリアリティが少ないからだ。いろいろな日々の経験の意味が”薄い”という問題だ。これが現代人の多くの人が陥っている問題だろう。
対策は2つだ。1つは、沢山人とコミュニケーションするとを中心に行動すること。こうすることで、自分が何者かわかってきて物語がはっきりしゲームへのリアリティが増す。もう一つは、自分の過去を分析して、自分がどういう人物か、この世界にいる私とはなんなのかをできる限り言語化する。これでも同じく物語性が強まり、ゲームへのリアリティが高まる。
要は先の1と2はゲームへのリアリティが高いのだ。1はそもそも生物的な生の危険から、ゲームへのリアリティが高まらざるを得ない。

以上、メモ書きチックになってしまったが、基本はこういう感じ。

藤井氏と尾原氏が『アフターデジタル』でまとめているアフターデジタルという企業のコミュニケーションの在り方は、人間関係においても言えるのではないか。


両氏は著書『アフターデジタル』の中で、オフラインがデジタル世界に包含される世界を「アフターデジタル」と呼び、多くの日本人の捉え方が「ビフォアデジタル」であることに警笛を鳴らしながら、世界潮流から見たデジタルトランスフォーメーションの方法論を提示している。
 
日本企業はオフラインを軸にしてオンラインを活用しているが、先進的な世界では考え方のベースがオンラインになっていて(オンラインが“主”)、オフラインは信頼獲得可能な顧客との接点という位置づけ(オフラインが“従”)であること。「顧客接点データを多く持ち、それをエクスペリエンスの良さに還元する」という新たな改善ループをいかに高速で回せるかが、新しい競争原理になっている、とのこと。

これは企業のサービス競争の原理であるが、実は、これあらゆるコミュニケーションの未来の在り方なのではないか?

私はかねてから、同じ人間と毎日いっしょに住む結婚の在り方や仲いいからといって毎日同じ人と会う在り方に疑問があった。しかし、好きな人や関心や志を共にする人と毎日密にコミュニケーションを取ることを人間的であり、いいことだ。問題は、フィジカルで会うとなると、リアルタイムで両者が拘束され、さらにノンバーバルなあらゆる情報が必要となるコミュニケーションは道具的なコミュニケーションにはめんどうなだけだ。いくら仲良しや夫婦、仲間であっても、実際問題日々のコミュニケーションの多くは道具的なコミュニケーションであろう。

ここで、「アフターデジタル」的な考え方が応用できる。日々のコミュニケーションはネット上のチャットや場合によっては音声通話、動画チャットで行い、要所だけ、実際に面と向かってコミュニケーションする在り方。日々のネット上のコミュニケーションで相手の状況や、個人の歴史を理解していき、実際に会うときだけそれらの情報をもとに深く、さらに感情的なやり取りをする。こうすることで、多くの人たちと深く実りのある関係を築けるのではないか。これはもちろん、プライベートな人間関係、仕事場における人間関係、あらゆる場面のコミュニケーションについていえることだ。

僕は86世代の日本人だが、ドラゴンボールやワンピースの世界観が脳内に深く浸透している。

これらのアニメを見ていると、多少拡大解釈かもしれないが、自分が進みたい分野を愛し、楽しみ、めちゃくちゃ努力すれば、頂点にいける、というような幻想を抱いてしまう。

さて、話は変わり、世界陸上のマラソンを見てふと思った。

先頭集団、全員アフリカン・アメリカン系やん。

やはり、物理的な身体としての優位性、育った物理的な環境などで、かなり有利なのだろう。

僕は、川内選手が山を走ったりしてハードワークをしていて、さらに日本国内では実績も出しているから世界でも上位にいけると期待していた。しかし、結果は29位。

それでも凄いことなのだが、僕はなぜかここで次のように思った。自分の育ち、身体の特徴、友達、文化、国などから、勝てる見込みのあるところで勝負したほうがいい、と。

冒頭に書いたように、実は僕も痛い人間で、頑張ればスポーツでも、学業でも、仕事でも、どんな分野でも一番になれると思っている。しかし、現実は甘くない。物心がついた段階で、僕らはある状況にいる。その手札の中で戦略的に考えていく必要がある。

もちろん、夢はあきらめちゃいけないが、現実的に考えないと何も始まらない。

そして、さらに重要なことは、手札があって初めてコミットできる夢が現れるのだ。他者とどう違うか、というのが自分の道を開く。

何はさておき、上を向いて前進していこう。

人により何に対して納得がいくかは違う。

その人は生まれてきてから、周囲の人々や土地の影響を受けて価値観や世界観を編み上げてきた。その過程全てと、その結果としての今の状態を「過去」と呼ぼう。

その人を説得したければ、その人の「過去」に想像を働かせ、「過去」にある程度の想定を持ち、説得する方法を考える必要がある。何をどのくらいどのように説明すれば納得してくれるのか。

また、さらに、その人が今後接するであろうあらゆる情報についても想像を働かせる必要がある。

こちらの主張がその人の「過去」と以後の経験と調和するような内容でなければならない。


これらの言葉って僕は哲学を学ぶまであまりしっくりきていなかった。

クリティカルシンキングは、常識や固定観念にとらわれないで考える、みたいなこと。そして視野を広げるとは、よく留学に行く理由なのでざっくり使われる。広げて何になるの?

これって、まず人間存在についてある程度の見方を想定していないと理解できない。つまり、われわれの意識構造についての想定だ。

僕らは生まれたときは真っ白で、いろいろな五感の体験を通じて、概念(言語)を学び、世界の見方を習慣的に学ぶ。今見ている世界は過去の産物だ。「アメリカ人」という語に何を思うかは、その人が接したアメリカ人に依る。こうした習慣的なものは「社会」といえる。

そして、「社会」の外には、習慣的でない実体として措定される「世界」がある。われわれにとって絶対的な価値を持つのは相対的なものではない絶対の「世界」だ。しかし、それは直接経験できるものではない。

この「世界」の中で「社会」を作り生きているのが人間存在である。これを理解していれば「クリティカルシンキング」と「視野を広げる」の意味も明確になるのではないか。

昔からなのだが、二次的な凄さは本当にどうでもいい。

例えば、facebookが多額の資金調達をしたとか、すごい技術を開発したとか、長期的な凄い展望を持っているとか。

全ては一次的なユーザー体験である。そこが全て。もちろん、そこにそれを提供している会社のイメージが入ることもあるだろうが、やはり中心的なのは「いま、ここ」の体験である。

facebookだったら、みんなの動向や広告の出てきて、インタラクションできるタイムライン。友達とコミュニケーションができるメッセンジャー。これが全て。たしかに、出てきた当初は新しく、その後使い勝手も徐々に進化している。ただ、ユーザーの主観にとっては、友人の近況が見れるというサイトでしかない。もちろん、多くの友人が使っているというのは背後のビジネスが頑張っているからだ。

しかし、この体験と、ビジネス或いは組織として語られるfacebookは次元が違う。体験を創るために背後のからくりがある。背後のからくりがいくらすごくても体験がつまらなければ意味がないし、逆に体験がすごければ背後の仕組みなどどうでもいい。例えば、道端の占い師。背後のビジネスなどない。しかし、ユーザーからすれば、面と向かってリアルな人間から未来や過去について語られる体験は普段とは違う面白さがあるだろう。

体験が全てであり、その背後の仕組みはどうでもいい。もちろん、背後の仕組みが凄ければ凄い体験を作りやすいだろう。しかし、一次的な体験が全て。

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